また、会期終了ぎりぎりにならないと行かないの法則で、根津美術館の「やきもの勉強会 食を彩った大皿と小皿」をようやく観に行ってきた。根津美術館は久しぶり。
確かに小皿って「銘々」の皿だから、大昔から食事の場にあったわけじゃないんだなあ、と当たり前のことを思う。私は大皿料理を「パーティ系」、小皿や小鉢の料理を「愛人系」と勝手に(たぶん桃井かおりさんにならって)呼んでいるのだが、小皿料理は愛人系の人の要請で誕生したのではないか。いや、真面目にそう思ってます。
ところで、私の実家で小皿一般のことを「おてしょう」と呼んでいるのを方言だと思っていたのだが、展示の説明の中に「手塩(皿)」という言葉が沢山あって、標準的な言葉だったのだな、と今さら知った。
百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より
2017年9月3日日曜日
2017年6月15日木曜日
食前の祈り
美術展は会期終了間際にならないと行かないものだ。重い腰を上げて、森タワーでの「大エルミタージュ美術館展」を観に行く。
シャルダンの「食前の祈り」が観たかっただけなので、他のほとんどの作品はざっと眺めたのみ。この絵はルーブルにあるものだと思っていたのだが、別のヴァージョンをエルミタージュが持っているとのこと。構図は全く同じだが、制作年が左隅に描き込まれていることや、床にフライパンが置かれていることなど若干の相違点がある。
シャルダンの「食前の祈り」が観たかっただけなので、他のほとんどの作品はざっと眺めたのみ。この絵はルーブルにあるものだと思っていたのだが、別のヴァージョンをエルミタージュが持っているとのこと。構図は全く同じだが、制作年が左隅に描き込まれていることや、床にフライパンが置かれていることなど若干の相違点がある。
2017年6月11日日曜日
狂気と天才
昨日、定例のゼミに出席したついでに、東京ステーションギャラリーで開催中の展覧会「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」を観た。展示されている作品だけでも圧倒されるが、これを何万枚もの絵物語に描き続けた首尾一貫性が怖い。狂気と言うべきか天才と言うべきか。
最近思うのだが、天才の本質はその首尾一貫しているところではないか。基本的に凡人には首尾一貫した見解や、生き方の方針がない。大体において、毎日をその場限りの反射と妥協と曖昧さで生きているものだ。G.K.チェスタトンが、狂人とは正気が足らない人ではなくて正気過ぎる人のことだ、と言うようなことを書いていたと思うが、まさに狂人と天才は正気過ぎるのだと思う。
ヴェルフリの複利計算の表と世界征服計画の絵などを観ていると、夢見がちなデイトレイダとか起業家の妄想と大差ないのだが、それがここまで徹底しているところが怖い。資本主義は本質的に精神病と関係があるに違いなくて、正気過ぎる人はこうなってしまうのかも知れない。
最近思うのだが、天才の本質はその首尾一貫しているところではないか。基本的に凡人には首尾一貫した見解や、生き方の方針がない。大体において、毎日をその場限りの反射と妥協と曖昧さで生きているものだ。G.K.チェスタトンが、狂人とは正気が足らない人ではなくて正気過ぎる人のことだ、と言うようなことを書いていたと思うが、まさに狂人と天才は正気過ぎるのだと思う。
ヴェルフリの複利計算の表と世界征服計画の絵などを観ていると、夢見がちなデイトレイダとか起業家の妄想と大差ないのだが、それがここまで徹底しているところが怖い。資本主義は本質的に精神病と関係があるに違いなくて、正気過ぎる人はこうなってしまうのかも知れない。
2017年4月28日金曜日
一子相伝
隠居だってプレミアムなフライデイなるものをしてみんとす。神保町でランチを楽しんでから(昼間に飲むビールはうまい)、竹橋まで散歩。今日は暑いと言うほどでもなく、丁度良い陽気の散歩日和だ。
東京国立近代美術館で開催中の展覧会「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」を観る。初代長次郎から現代まで代々の作品が順に並べられているので、その発展が興味深い。しかし、正直に言って、私には当代の茶碗の良さが全く分からなかった。先代までは理解できないながらも何となくすごい、ただものではない、という感じが伝わってくるのだが。もちろん私の目が低いせいだろう。
ついでに所蔵作品展なども一通り観たら、午後一杯楽しんでしまった。MOMAT もやはりなかなかいいものを持っている。夕方帰宅。
東京国立近代美術館で開催中の展覧会「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」を観る。初代長次郎から現代まで代々の作品が順に並べられているので、その発展が興味深い。しかし、正直に言って、私には当代の茶碗の良さが全く分からなかった。先代までは理解できないながらも何となくすごい、ただものではない、という感じが伝わってくるのだが。もちろん私の目が低いせいだろう。
ついでに所蔵作品展なども一通り観たら、午後一杯楽しんでしまった。MOMAT もやはりなかなかいいものを持っている。夕方帰宅。
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