百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より
ラベル quote の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル quote の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年6月27日木曜日

思い上がりとむなしさ

われわれは、全地から、そしてわれわれがいなくなってから後に来るであろう人たちからさえ知られたいと願うほど思い上がった者であり、またわれわれをとりまく五、六人からの尊敬で喜ばせられ、満足させられるほどむなしいものである。
パスカル『パンセ』(前田陽一・由木康訳/中公文庫)、第二章「神なき人間の惨めさ」、一四八

2019年6月24日月曜日

仮想の生活

われわれは、自分のなか、自分自身の存在のうちでわれわれが持っている生活では満足しない。われわれは、他人の観念のなかで仮想の生活をしようとし、そのために外見を整えることに努力する。われわれは絶えず、われわれのこの仮想の存在を美化し、保存することのために働き、ほんとうの存在のほうをおろそかにする。そして、もしわれわれに、落ち着きや、雅量や、忠実さがあれば、それをわれわれの別の存在に結びつけるために、急いでそれを知らせる。それを別のほうに加えるために、われわれから離すことだってしかねないのである。勇敢であるとの評判をとるためには、進んで臆病者にだってなるだろう。
パスカル『パンセ』(前田陽一・由木康訳/中公文庫)、第二章「神なき人間の惨めさ」、一四七より

2019年3月31日日曜日

「人類」についての現在の見通し

現在、種としての人類は発狂しており、精神的自制ほどわれわれに急を要するものはないといったとしても、ほとんど誇張ではない。もしある個人が、その指導理念において、自己や他人にとって危険となるほど、彼の環境に不適応な状態になっているとすれば、われわれは彼を狂気と呼ぶ。この狂気の定義は、現在における全人類にあてはまるように思われるが、(……)
『世界史概観』(H.G.ウェルズ著/長谷川文雄・阿部知二訳/岩波新書)、第70章「『人類』についての現在の見通し」より

2019年3月19日火曜日

いろいろなことと挫折

いろいろなことをやってしまうと、「あの人はいろいろなことがやれる人だ」という錯覚が生まれる。しかし、「いろいろなことがやれる」は結果論であって、なぜ人が「いろいろなこと」をやるのかと言えば、「いろいろなことをやらざるをえないから」であって、その人のやった「いろいろなこと」とは、壁にぶつかったその人が示す、挫折の数であり、試行錯誤の数でしかないのである。
一つのことしかやらないですんでいる人は、「他に能がないから」などと、謙遜して自分を語ったりするが、それは「能がない」ではない。挫折を知らずにすんでいるだけなのである。
『「わからない」という方法』(橋本治/集英社新書)より

2019年2月25日月曜日

平穏な生活

人々からの損われることのない安全は、煩いごとを排除しうる何らかの力によっても、或る程度までは得られるけれども、その最も純粋な源泉は、多くの人々から逃れた平穏な生活から生まれる安全である。
『エピクロス —教説と手紙—』(出隆・岩崎允胤訳/岩波文庫)、「主要教説」十四

2019年2月24日日曜日

エルスチールの叡智

「どんなに賢明な人でも」とエルスチールは私に言った、「青春のある時期に、想い出しても不愉快で抹消したくなるようなことばを口にしたり、そんな人生を送ったりしなかった者など、ひとりもありません。しかしそれはひたすら後悔すべきものでもないんです。まずはありとあらゆる滑稽な人、忌まわしい人になったあとでなくては、なんとか曲がりなりにも最終的に賢人になどなれるわけがありません。(……中略……)人間は、他人から叡智を受けとるのではなく、だれひとり代わりにやってもくれず逃れることもできない道程の果てに自分自身で叡智を発見しなければならないのです。……」
 『失われた時を求めて 4』(プルースト/吉川一義訳/岩波文庫)より。(第二篇「花咲く乙女たちのかげに」、第二部「土地の名—土地」)

2019年1月12日土曜日

Almost Over

老人は、眼鏡を注意深く片方ずつ耳にかけた。「わしは、日々生き残るってことについては十分な知識を持っとる。世間でわしくらいその道の専門家はいないよ。それでどのくらい助かったことか。わしの人生、二語でいえるのだが、きみ、知りたいと思わんかい?」老人は胸のつぶれる思いで、もう一度棺を見下ろした。「二語でだぞ!」というなりダイアモンドはもう絶叫していた。「もう少しだ(Almost)! 終った(Over)! この二語のおかげで、わしは信じてもおらん神に日々感謝しとるのよ」
『チャーリー・ヘラーの復讐』(R.リテル/北村太郎訳/新潮文庫)より

2019年1月10日木曜日

ジェームズ・ボンドと美食

「許してくれなきゃ困るが、わたしは飲んだり食ったりすることに、ばからしいくらい喜びを感じるんだ」ボンドはいった。「ひとつには、ひとり者だからなんだろうが、それよりも何ごとにもこまかいことにまでうんと苦労するという癖がおもな理由らしい。……」
『カジノ・ロワイヤル』(イアン・フレミング/井上一夫訳/創元推理文庫)

2018年12月7日金曜日

登場人物の時間

「あれはもう子供じゃない、好みはもはや変わらないだろう」と言った父のことばで、突然、私は自分が「時間」のなかにいることに気づき、悲しみを感じた。私は、耄碌して養老院に入居したわけではないが、本の最後で作者からとりわけ冷酷さの際立つ無関心な口調で「男はますます田舎を離れなくなり、とうとうそこに住み着いてしまった」などと書かれる人物になったような悲哀を感じたのである。
 『失われた時を求めて 3』(プルースト/吉川一義訳/岩波文庫)より。(第二篇「花咲く乙女たちのかげに」、第一部「スワン夫人をめぐって」)

2018年10月4日木曜日

あからさまな情熱

われわれが認識できるのは他人の情熱だけで、われわれ自身の情熱については他人から教わって知りうるにすぎない。情熱がわれわれに作用をおよぼすのは想像力を介した二次的作用で、想像力が、最初の動機の代わりにはるかに慎ましい媒介動機をつくりだすのである。けっしてルグランダンのスノビスムが、頻繁にどこかの公爵夫人に会いに行くよう勧めたわけではない。スノビスムのせいで、ルグランダンの想像力が、その公爵夫人はあらゆる魅力を備えていると想いこんだまでの話である。ルグランダンとしては、公爵夫人と近づきになるのは、下劣なスノッブどもにはわからない才気と美徳の魅力に惹かれたからだと考えたにすぎない。ルグランダンもスノッブの一員だとわかっていたのは、他人だけである。というのも他人は、彼の想像力が果たしている媒介作用が理解できないおかげで、ルグランダンの社交活動とその第一要因を並列して見るからである。
 『失われた時を求めて 1』(プルースト/吉川一義訳/岩波文庫)より。(第一篇「スワン家のほうへ I」、第一部「コンブレー」、二)

2018年8月7日火曜日

文法と論理学

「私は常に文法や論理学を擁護する人たちを尊敬してきました。五十年後になったら分かるのです。そうした人たちが大いなる危険を回避してくれたことが。」
「失われた時を求めて」(M. プルースト著/鈴木道彦訳/集英社文庫)、第 12 巻(第七篇「見出された時」)よりシャルリュス男爵の言葉

2018年8月6日月曜日

ヴェルデュラン夫人とクロワッサン

彼女は、新聞がルシタニア号の遭難を報じた日の朝、久々にその最初のクロワッサンにありついた。カフェ・オ・レにクロワッサンをひたしながら、そして手をパンから離すまでもなく、もう一方の手で新聞を大きく広げられるように軽く新聞をはじきながら、彼女は言うのだった。「なんて恐ろしい! どんなにむごい悲劇だって、こんなに恐ろしいことなんかありゃしないわ」。しかしこれらすべての溺死者たちの死も、彼女には十億分の一に縮小されて見えたにちがいない。なぜなら、口いっぱいに頬張りながらそのように悲しい考察をしたときに、彼女の顔に浮かんだのは、おそらく偏頭痛を鎮めるためにたいそう有効なクロワッサンの味に引き寄せられたのだろう、むしろ穏やかな満足の表情だったからだ。
「失われた時を求めて」(M. プルースト著/鈴木道彦訳/集英社文庫)、第 12 巻(第七篇「見出された時」)より

愚かさと情熱

どこの国でも一番数が多いのは愚か者である。もし彼がドイツに住んでいたら、愚かにも情熱をこめて不正な立場を擁護するドイツの愚か者たちにすっかりいらいらしたことは、疑いの余地がない。けれどもフランスに住んでいたので、愚かにも情熱をこめて正しい立場を擁護するフランスの愚か者たちが、やはり彼をいらだたせた。情熱の論理は、たとえ最も正当な権利に奉仕する場合でも、情熱にかられない人にとってはけっして反駁できないものではない。シャルリュス氏は愛国者たちの誤まった理屈を、一つひとつ巧妙に指摘した。正当な権利にすっかり満足している間抜けな者や、成功を確信している者は、とくに人をいらいらさせる。
「失われた時を求めて」(M. プルースト著/鈴木道彦訳/集英社文庫)、第 12 巻(第七篇「見出された時」)より

2018年8月1日水曜日

若さの幻想

以前から私は、仕事をしたい、失われた時をとりもどしたい、生活を変えたい、というよりむしろ本当の生活を始めたい、と考えていたが、そうした気持が続いているために、自分が以前と同じように若いのだという幻想を持っていた。
「失われた時を求めて」(M. プルースト著/鈴木道彦訳/集英社文庫)、第 11 巻(第六篇「逃げ去る女」)より

2018年7月28日土曜日

隠棲

一定の年齢に達したら、人間は名前を変えて、どこか目立たぬ一隅に隠れ住むべきである。誰とも面識がなく、友人や敵に再会する危険もまたなく、仕事に飽き疲れた悪人のようにして、安らかな生涯を終えられる場所に。
「生誕の災厄」(E.M.シオラン著/出口裕弘訳/紀伊國屋書店)より

2018年6月23日土曜日

田舎の流儀

田舎では昔、枕を使って老人を窒息させたものだという。賢明な処置であり、各家庭がそうした流儀に磨きをかけていた。老人たちを寄せ集め、柵のなかに閉じこめ、退屈を救ってやったあげく痴呆状態に追いこむのよりは、はるかに人間らしい手立てではないか。
「生誕の災厄」(E.M.シオラン著/出口裕弘訳/紀伊國屋書店)より

2018年6月12日火曜日

幸福を感じること

また、それ(幸福)が不完全なのは幸福を感じる者が悪いので、幸福を与える者のせいではないのだけれども、アルベルチーヌはまだそんなことに気がつかない年齢だったから(その年齢を越えられない人たちもいるものだ)、……
「失われた時を求めて」(M. プルースト著/鈴木道彦訳/集英社文庫)、第 8 巻(第四篇「ソドムとゴモラ II」)より

2018年6月4日月曜日

親切と育ちの良さ

「でも、あなたはわたしたちと対等です。たとえそれ以上ではないとしても」とゲルマント夫妻は、そのすべての行動によって告げているように見えた。しかも彼らはそのことを、考えられる限り最もやさしい口調で言う。それは自分たちが好かれ、賞讃されるためであって、その言葉をそのまま信じてもらうためではない。この親切さの虚構の性格をわきまえること、それこそ彼らが、育ちがよいと呼ぶところのものだった。一方、この親切をそっくり真実と思うのは、育ちが悪いのである。
「失われた時を求めて」(M. プルースト著/鈴木道彦訳/集英社文庫)、第 7 巻(第四篇「ソドムとゴモラ I」)より

2018年5月23日水曜日

数学と技術

そこで、わたしは仕事にとりかかったが、ここでいっておかねばならないのは、理性が数学の実質であり根源であるから、あらゆることを理性によって整え、正し、ものごとをもっとも合理的に判断すれば、だれでもすべての機械技術を身につけることができる、ということである。 
「完訳 ロビンソン・クルーソー」(D.デフォー著/増田義郎訳/中公文庫)、「七 生活の設計」より

2018年4月24日火曜日

プルースト、三十歳の自己評価

「楽しみも目標もなく、活動も野心もなく、この先の人生はすでに終わったも同然で、自分が両親に味わわせている悲しみに気づいている僕には、わずかな幸福しかない」
プルースト、三十歳の自己評価。「プルーストによる人生改善法」(A.ド・ボトン著/畔柳和代訳/白水社)より