百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2018年12月26日水曜日

「十二月大歌舞伎」昼の部、千秋楽

先日、夜の部で玉三郎の阿古屋を観たところだが、今年最後の贅沢納めに再び歌舞伎座、昼の部へ。年の瀬で懐も寒いが、老い先短い身の上、これも冥土への土産。酒を一合だけ水筒に詰めて、切子のグラスを持って外出。お弁当は三越地下で買ったばら散らし。

「幸助餅」は上方落語で聴いたことがあるが、お芝居は初めて。松竹新喜劇の演目を歌舞伎化したもので、歌舞伎座で上演されるのは今回初とか。幸助に松也、関取雷に中車など。不覚にもじーんとしてしまった。やはり、年の瀬や水の流れと人の身はではないが、人情の儚さや有り難さが身に沁みてくる季節なのだろうか。

 「於染久松色読販」(お染久松)は壱太郎が、お染と久松の他の色々含め七役を早変わりで演じる。七役ともなるとどうしても、顔が描き分けられない漫画を読んでいる感じになってしまうものだが、歌舞伎らしい趣向として素直に楽しんだ。一人が演じている二役が同時に登場する(ように見える)場面をいかに実現するかに、密室トリックやアリバイ崩しのような趣きがあって面白い。日本の古典芸能にはこんなからくり好きな一面がある。ちょっと連城三紀彦や泡坂妻夫を思い出したり。

ちなみに私はこれまで壱太郎があまり好きでなかった。多分、顔の感じがタイプでないだけだと思う。しかし、今回の舞台はかなり良かった。壱太郎の腕が上がったのか、化粧が変わったのか、私が慣れてきただけなのか分からない。私の好みはさておき、主役を張れる女形に成長していることは確かで、今日などは千秋楽ということもあって「成駒屋かずちゃんオンステージ」の貫禄があった。


2018年12月13日木曜日

「十二月大歌舞伎」玉三郎の「阿古屋」他


いただきものの賀茂鶴と杯を持参し、「今半」のすき焼き重ね弁当を買って、歌舞伎座へ。今月の夜の部は、「壇浦兜軍記(阿古屋)」で阿古屋を玉三郎がつとめるAプロと、梅枝と児太郎がダブルキャストでつとめるBプロに分かれていて、悩ましい。玉三郎の阿古屋は今観ておかねばではあるし、私は児太郎も梅枝も好きな女形なのでそれぞれの初挑戦も観たい。しかし年末で時間にも懐にも制限がある中、日程の許す範囲で一番良い席が取れる日で選んだところが、今日のAプロ。

「壇浦兜軍記」は阿古屋に玉三郎、重忠に彦三郎など。重忠が阿古屋に拷問の代わりに琴、三味線、胡弓を弾かせて心中を見抜こうとする「琴責め」の段。そもそも不自然な設定なのはさておき、役者が三つの楽器を実際に弾く必要はさらさらなく、芝居なのだから弾くふりでよいはずだ。そこを本当に弾いてしまうのが歌舞伎の趣向で、演じる方は大変だが、観る方は面白い。玉三郎の阿古屋はさすが。綺麗なのは勿論だが、歌いながら、地方とあわせながら演奏していても、役者としてがんばってますよ、すごいことやってますよ、と感じさせない。教養豊かで健気で儚げな阿古屋の姿が自然に見えてくるところが素晴しい。ところで、玉三郎は特に胡弓がうまい気がする。

「あんまと泥棒」は泥棒の権太郎に松緑、あんまの秀の市に中車。ラジオドラマの脚本を歌舞伎化したものらしい。落語ならまだしも歌舞伎にする意味があったのかどうか。でも、観る方も気が張る「阿古屋」のあとがこういう気楽な演目なのは、良い塩梅。

Aプロの最後は梅枝と児太郎で「二人藤娘」。この二人の阿古屋は観られなかったが、踊りで共演を堪能。

私はのんびりした昼の部の雰囲気が好きなので、再度、昼の部の歌舞伎座を訪れて芝居納めにしよう、という気持ちと、今日の舞台が良かったからこれで気分良く締めておく、という気持ちの間で揺れ動いている。


2018年12月7日金曜日

登場人物の時間

「あれはもう子供じゃない、好みはもはや変わらないだろう」と言った父のことばで、突然、私は自分が「時間」のなかにいることに気づき、悲しみを感じた。私は、耄碌して養老院に入居したわけではないが、本の最後で作者からとりわけ冷酷さの際立つ無関心な口調で「男はますます田舎を離れなくなり、とうとうそこに住み着いてしまった」などと書かれる人物になったような悲哀を感じたのである。
 『失われた時を求めて 3』(プルースト/吉川一義訳/岩波文庫)より。(第二篇「花咲く乙女たちのかげに」、第一部「スワン夫人をめぐって」)