百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より
ラベル book の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル book の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年4月13日金曜日

メグレ警視とデュマ

病気のとき、メグレはアレクサンドル・デュマの小説に読み耽るのが習慣だった。そのため、黄色い頁にロマンチックなさし絵の入った古い廉価版のデュマ全集をもっていた。これらの本が発散する匂いは、なににもまして、メグレに、これまでかかったあらゆる軽い病気のことを思い起こさせるのだ。……
「メグレと殺人者たち」(G.シムノン著/長島良三訳/河出文庫)より

2017年12月28日木曜日

年の瀬の神保町

今年最後の神保町散歩。黒ビール半パイントを飲みながら一年の一人反省会をしてのち、行き付けの古書店を巡る。

ディック・フランシスの長編を集め始めてからずいぶん長いのだが、最後の最後まで入手できなかった二冊、「追込」と「決着」(菊池光訳/ハヤカワ文庫)の両方ともを、百円均一棚と同店内で見つける。もちろん、こういう一般書、業界用語で言えば「白っぽい本」は、今では amazon でいくつかクリックすれば直ちに入手できるのだが、散歩の途中の古書店で出会うのが楽しいのである。こんな文庫本を見つけただけで、ああ来年は良い年になりそうだなあ……なんて馬鹿なことを思えるのだから。

そのあと、これまた行き付けの珈琲屋で一服して、反省会の続きをしたり、買った本をほくほくしながら眺めたりしてから、帰路につく。

2017年9月23日土曜日

ルイス・キャロルの数学と私

先週、拙著「測度・確率・ルベーグ積分」(講談社)が出版されて今は、あんなに何度も校正したのに沢山残っていた間違いや誤植にため息をついているところである。サポートページの正誤表を更新してはいるものの、改訂のチャンスがあればよいのだが。

それはさておき、今まで沢山出版されている測度論と確率論の教科書に対する拙著の特色は、薄い、軽い、数学の専門家向けではない、などの他に、ルイス・キャロルにかなりページ数を割いて言及していることである。おそらく、一言でもキャロルに触れた現代的確率論の本は他にないだろう。

私は以前から、ルイス・キャロルの "Pillow Problems"「枕頭問題集」の確率に関する(複数の)問題の単純な間違いを、なぜ誰も指摘しないのか、とフラストレーションを感じていた。ほとんどの訳者は数学の知識、特に現代的確率論の知識を持っていないため、気づかないのは仕方がない。そもそもマイナな作品のため、気づいた読者も特に公には言及しないのだろう。しかし私としては、いつか機会があれば、このことを書きたいと思っていた。

また、随分と前のことで経緯は忘れたが、某出版社からルイス・キャロル全集の企画を手伝ってほしいと頼まれたことがある。数学に関する業績も入れたいから、数学が主題の論文や記事の内から主要なものを選んで訳してほしい、とのことだった。今なら話半分に聞くが、当時の私は真面目だったので、キャロルの業績がほぼ網羅されている、イギリスで出版された全集の大量のコピーを一ヶ月ほどかけて熟読したのだった。そして、重要かつ代表的と思われる論文数編を選び、翻訳もした。しかし、良くあることながら、その企画はお流れになったらしく、編集者も何の連絡もしてこなくなった。

おかげで私はキャロルの数学的業績に通じることになった。初歩の論理学、代数、暗号、円積問題(円と面積が等しい正方形の作図問題)などは予想の範囲内だったが、公平なトーナメントや選挙の方法に関する論考や提案など、シリアスな貢献と言えなくもない仕事もある。キャロルの数学の世界の全体に目を開かされたことは良い経験だったが、直ちに何かに生かせるわけではない。まあ、無駄骨を折ったわけで、こういうのを「教養」と呼ぶのかも知れないが、いつか何かの形にできないものかとも思っていたのである。

私見ではルイス・キャロル(Dodgson, C.L.)の数学的業績は、おそらく、大したものではない。しかし、19 世紀末というある意味で絶妙の時期に、キャロル的としか言いようのない独特のセンスで活躍したため、数学史・科学史的に興味深い題材になっていると思う。例えばその一つが、今回「測度・確率・ルベーグ積分」でも触れた、測度論誕生前夜のエピソードとしての「ランダムに選んだ数が有理数である確率、無理数である確率」を巡る論争である。

以上の二つの理由から、このあたりのことについて何か文章を残したいと思っていたところに、「応用者向けの測度論の入門書を書かないか」と出版社から相談され、正直に言うと、導入部でキャロルについて書きたいばっかりに二つ返事で引き受けたのである。そして無事に出版までたどり着けたが、説得力のあるイントロダクションになっているかどうかは、読者諸氏のご判断に任せるしかない。もちろん私自身は、欲求不満の一部を解消できたこともあり、けっこう気に入っている。

2017年8月30日水曜日

校了

昨日、念校のチェック箇所の反映を確認して、校了。もうこの後、私にできることはなく、(本当に出版されるなら)出版を待つだけなので、シャンパンで自分にお疲れ様。

測度論、(ルベーグ)積分論、測度論的確率論の初歩のあたりをカバーする入門的教科書なのだが、このジャンルには(読者の少なさのわりには)既に、沢山の本が出版されている。さすがに、もう十分なのではないか、という気もする。私自身、定番的な教科書二冊(Williams, Capinski-Kopp)に共訳者として携わったので、訳書も含めればこれが三冊目だ。

しかし、最近、数学以外の分野の学習者から、現代的な確率論の基礎を学びたい、測度論を知りたい、と言う声を良く聞くわりには、非専門家向けの適当な教科書がないのではないか、と出版社の方がおっしゃるので、まあそう言えなくもないかなあ、とその気にさせられたわけである。主旨としては、数学が専門ではない理工系の読者を対象に(面倒な証明は省略可能)、コンパクトに必要事項をまとめ(全体で 160 ページ以内)、しかも、なぜそう考えるのかは親切に説明する(前の要請と対立するが)、という感じ。

先日、知り合いの方とお話していたときに、近頃出版された T.タオの本の話題から、測度論の教科書の話になった。どうやら最近、測度論がはやっているのではないか。ここでさらにもう一冊出すのは「駄目押し」って感じですね、などと笑ったのだが、実際、本来の囲碁の意味で駄目を置いただけにならないか、ちょっと不安。

2017年8月23日水曜日

「死にいたる病」

前に引用したように、キルケゴールが大事なんじゃないかと思うようになり、しばらく就眠儀式として少しずつ「死にいたる病」(S.キルケゴール著/桝田啓三郎訳/ちくま学芸文庫)を読んでいた。昨夜、読了。なんだかすごいことが書いてあるみたいだぞ、と同時に、こりゃ敵わんなあ、もしくは、どうしようもないなあ、という感。

私の理解が正しければキルケゴールは、絶望と罪を「神の前にただ独りで立つ」ことを軸に論じ、まさにそのことで真の「キリスト者」たることを論じているので、それはどこまでもその人自身だけの、誰にも伝えられず、伝えることにも意味がない問題である。その不可能性を信仰で乗り越えるのがキリスト教であり、またキルケゴールの方法なので、ぎりぎりのところで「信じるか、躓くか」しかない。つまり、異教徒であり、また信仰も持たないため、信じることも躓くこともできない私のような人間には、どうしようもない。

とは言え、一番大事なこと、他のことが全て無意味になるほど大事なことは、(私の立場からすれば、もしそういったものがあるとすれば、だが)、他人に伝えたり他人と関わることが全く不可能なほど徹底的に個人的な問題であり、また、論理的、客観的には原理的に表現不可能な領域にある問題であり、究極的には「信仰」によってしか解き明かせない問題である、という一点こそが、異教徒や不信心者にはなかなか理解できないまでも、一番大事なことなのだろう、とは思った。

2017年8月18日金曜日

お化けと隠居

隠居して毎日なにしてるんですかと訊かれると困って、「いろいろ」と答えていた。しかしこの頃になって、荒俣宏が「大都会隠居術」(光文社)で隠居とお化け(妖怪)の類似性を指摘していたことがあれこれ腑に落ちるようになり、「妖怪のような暮らし」とか「ゲゲゲの鬼太郎の主題歌のような毎日」と答えれば正しいと思うようになった。

誰でも人間や社会に愛想がつきて、お化けか妖怪のように暮らせればいいなあ、と思うことがある。なにせ、お化けにゃ学校も試験もないし、会社も仕事もないし、死なないし病気にもならない。朝は寝床でぐうぐうぐう、昼はのんびりお散歩だ。その究極の贅沢を「老い」という手段で実現するのが隠居である。

とは言え、私も夜は墓場で運動会をしているわけではない。

2017年8月17日木曜日

英単語

英語で書かれたものを読むときには、意味が分からない語が頻繁に現れるので "OALD" を傍らに置いているのだが、大抵これだけで用が足りてしまう。ちなみに英英辞書とは言っても、文法の初歩的な説明や、絵やイラストが沢山入っている、英語学習者向けの辞書である。

と言うことは、私の英単語力は高校生の頃からさして進歩していない。いや、辞書を引く頻度や、引く語からして、後退している気がする。

2017年8月11日金曜日

夏の読書

隠居に土日も祝日も盆も正月もないのだが、生活のリズムをとるため、世間のカレンダにあわせて一日の過し方を変えるようにしている。

そんなわけで、数日仕事やルーチンワークを停止して、家でのんびり気楽な本など読んで休む予定。お供は「ホット・ロック」(D.E.ウエストレーク著/平井イサク訳/角川文庫)、「ラブラバ」(E.レナード著/鷺村達也訳/ハヤカワ文庫)、「耳をすます壁」(M.ミラー著/柿沼瑛子訳/創元推理文庫)、「逆転世界」(C.プリースト著/安田均訳/創元SF文庫)、など。

2017年7月30日日曜日

「狙った獣」/「グリッツ」

週末、長時間の移動があったので往復の車中の読書は、買い置きの未読本から、往きには「狙った獣」(M.ミラー著/文村潤訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)、帰りには「グリッツ」(E.レナード著/高見浩訳/文春文庫)を選んだ。「グリッツ」は車中で読み切れず、今日帰宅してから、夕方、風呂上がりにパイナップルを食べながら読了。

「狙った獣」は今まで未読だった古典的名作。これは健康な心の持ち主には書けないな、と思うほど狂気の描写に真実味がある。狂気に首尾一貫した筋が通っていて、ここまで理性的なのは正気だからではなく、むしろ著者も狂っているからではないか。余計なお世話だが、ロス・マクドナルドとマーガレット・ミラーの夫婦生活はどんなものだったのかと、いらぬ心配をしてしまう。夫婦そろってここまで陰気で、狂気で、トリッキィだと、何かとても恐しい日常を送っていたのではないかと……

「グリッツ」でエルモア・レナードを初めて読んだ。面白い。まだまだ世の中には面白本があるのだなあ。スティーヴン・キングはこの「グリッツ」でレナードを「発見」し、読了後ただちに本屋に走って買えるだけのレナード作品を買ったとのこと。私はそこまで興奮はしなかったが、独特のスタイルが味わい深いことは確か。登場人物が一人残らず、皆、それぞれに良い。作品自体もどこがどう良いとは言い難いのだが、すみずみまで良い。ずっと読んでいたいような爽やかさな生命力。それでいて読後、ああ面白かった、で、何も残さず本を閉じられる。

2017年7月23日日曜日

「ブルー・ハンマー」

居間のエアコンが故障し、代替機がいつ設置できるかも目下不明で、真夏を満喫中。寝室と書庫にもエアコンがあるので、気をつけていれば熱中症の危険はないと思うが。

この土日は、定例のゼミに出席したり、知り合いの方に御自宅からの花火見物に誘っていただいて一家団欒のお邪魔をした他は、居間で冷たい発泡水を飲みながら読書など。「ブルー・ハンマー」(R.マクドナルド著/高橋豊訳/ハヤカワ文庫)を一息に読み通した。

「ブルー・ハンマー」は「縞模様の霊柩車」を古本屋で買ったら、無料でオマケにつけてくれたもの。おかげで期待せずに読んだせいか、(少なくとも読み終えた直後は)すごい傑作だと興奮した。ロス・マク流としか言いようのない冷徹な陰鬱さと、登場人物は少ないのに複雑でトリッキィなプロットのブレンドの塩梅が絶妙で、しかもどの描写もあっさりしているようで深い。ある意味では脇役だが、アーチャーが親しくなる女性記者の描写など凄みがあって、なかなかこうは書けないと思った。

ロス・マクと言えば、「さむけ」と「ウィチャリー家の女」の二作だけ読めば十分、とくらいに思っていたのだが、最後の作品でこの水準に逹しているところからして、読めるだけ読むべきかも知れない。

2017年7月17日月曜日

三連休

三連休、と言っても隠居の身には毎日が祝日みたいなものなので、人出にぶつからないように家でおとなしくしている以上の意味はない。特に最近は猛暑らしいので、外に出ないに越したことはない。

そんなわけで、この三日間はずっと校正作業と、その合間の SF 小説読書に集中。自分の本(数学の教科書)は再校を締切より数日早く仕上げ、SF 小説は「ハイペリオン」(D.シモンズ著/酒井昭伸訳/ハヤカワ文庫)と「ユービック」(P.K.ディック著/浅倉久志訳/ハヤカワ文庫)を読んだ。

「ハイペリオン」はエンタテイメントとしてはすごく面白いのだが、SF と言うよりは SF 的設定を舞台にした娯楽作品の感。そして、盛り上げに盛り上げて、さあここから、というところで「以下は次号を乞うご期待」。次作を含めての二部作、もしくは、さらに次の二部作を含めての四部作で完結するらしい。「ユービック」は、また別の意味で、SF と言えるのかどうか…… SF のような、ミステリのような、ハチャメチャのような、精緻絶妙なような、破綻しまくりのような、兎に角、変な作品。身の周りのものが、見る見るうちにテレビが真空管ラジオになり、自動車はクラシックカーになり、と先祖帰りしていき、それを食い止められるのは、現実補強スプレー「ユービック」。なんて、もうほとんど落語では。

2017年7月8日土曜日

「烈風」

胡瓜とハムのサンドウィッチと白ワインの夕食を食べながら、「烈風」(D.フランシス著/菊池光/ハヤカワ文庫)を読み始める。

残りわずか数冊の未読フランシス本の一冊。相変わらず、職業が異なるだけで本質的に全く同じ主人公(賢く、礼儀正しく、廉潔で、どこまでも忍耐強い)を用いてマンネリズムを貫いている。それでもその枠内で手を変え品を変え、高水準のサスペンスを書き続けたところが偉い。

この「烈風」の主人公は気象予報士。競馬にとって天気は重要な因子だろうから、競馬シリーズ第 37 作目にして、なるほどその手があったか、の感。私の知る限り(そして記憶が確かならば)、本シリーズで博士号を持つ唯一の主人公では。いや、医者か獣医がいたような、いなかったような。

2017年6月20日火曜日

アフォリズム

村上春樹がどこかで「教訓」が好きだと書いていたように思うが、私はアフォリズム(aphorism, 箴言)が好きだ。最近お気に入りの箴言集は、以下の二冊。

"The Bed of Procrustes" (N.N.Taleb / Random House), 「高貴なる人々に贈る言葉」(バルベー・ドールヴィイ著/宮本孝正・編訳)。


2017年6月5日月曜日

books are robust

From my experiences of the Lebanese war and a couple of storms with power outages in Westchester Country, New York, I suggest stocking up on novels, as we tend to underestimate the boredom of these long hours waiting for the trouble to dissipate. And books, being robust, are immune to power outages.
from "Antifragile" by N.N.Taleb

2017年5月31日水曜日

Quantum Computing since Democritus

今朝、"Quantum Computing since Democritus" (S. Aaronson / Cambridge) を読了。一年くらいかかったように思ったが、読書メモを参照するとまる二年以上を費していた。

私がこれまで読んだ一般読者向けの科学啓蒙書の中では、最も知的な本だった。計算複雑性の理論の入門書(?)なのだが、本当に分かっている人はこんなに色んなことと自分の研究分野がつながって、しかもすっきりと見えているのだなあ、と感心。

この "Quantum ..." より知的なのは、おそらく "The Road to Reality" (R. Penrose / Vintage) くらいか。ただし、私はこの本を途中で挫折して、四分の一程度しか読んでいないので、定かではない。暇だし、再挑戦してみようか。

しかし、"The Road to Reality" が "The Sunday Times Top Ten Bestseller" って本当なのだろうか。"Times" の購読者は一体どこまで知的なんだ。

2017年5月25日木曜日

落語とブラッドベリ

月末締切の原稿もほぼ上げたし、ヴェランダのタイルも復旧させたしと、今週は思いがけなく作業が捗ったので、午後はまた落語を聴きに行こう。と、おむすび(沢庵と海苔)と茹で卵とお茶と「火星年代記」(ブラッドベリ著/小笠原豊樹訳/ハヤカワ文庫)を持って家を出る。鈴本演芸場の五月下席、昼の部。

主任の柳家さん喬の「八五郎出世」が感動的だった。泣かせる。良く知らないが、きっと名人に違いない。トリ以外では柳亭小燕枝の「小言幸兵衛」が良かった。歌舞伎の道行の台詞の真似が本当の歌舞伎役者みたい。いや、下手な役者よりうまいくらい。

帰宅して湯船で「火星年代記」の続き。これってまるで落語だな、と思った一日。第二探検隊の顛末なんて、落語以外の何ものでもない。そう思うと実は、ブラッドベリはどの作品も落語なのではないか……と帰宅してからずっと考えている。


2017年5月22日月曜日

失われた本を求めて

裏長屋の隠居とは言え、あまり家に籠っていては身体に悪いかなと思い、外出。近所のインド料理屋でランチを済ませてから、日本橋に映画「メッセージ」を観に行く。テッド・チャンの短篇「あなたの人生の物語」の映像化。そのあと、神保町に行って、古書店巡りと珈琲屋での一服。

古書店で思いがけない本を見つけて、文字通り小躍りしてしまった。私が中学生の頃、ミステリ小説の愛好家だった叔父から譲り受けた中にあったもので、ミステリと SF の世界への道案内をしてくれた思い出深い一冊である。しかし、いつの間にか紛失してしまった。

遠い昔のことなので、タイトルも著者も忘れてしまい、ミステリと SF の両方をテーマ毎に面白おかしく紹介している、日本人の SF 作家が書いている、文庫本である、くらいの記憶しか残っていない。もちろん、今ではインタネットで小一時間も検索すれば判明するのだろうが、いつか偶然に古本屋の軒先の百円均一棚で見つけることもあるだろう、と再会を楽しみにしていたのである。

そして今日、百円均一棚ではなかったが、古書店の棚に発見。背中を見たとたんに、「もしやこれでは!」とビリッと来た。そして、手にとると確かに見覚えのある表紙。それは「夢探偵」(石川喬司著/講談社文庫/「SF・ミステリおもろ大百科」(早川書房)の改題)であった。

2017年4月2日日曜日

「大都会隠居術」

学生時代、と言っても二十そこそこの頃だが、「大都会隠居術」(荒俣宏編著/光文社)を読んで、そうだこれが私の望んでいた生き方だ、と思ったものである。私は元来老人臭い子供だったが、さらに言えば「隠居」に憧れていた。この本は隠居をテーマにしたアンソロジで、その心構えや実践の智恵を編者が指南する、という格好になっている。要点を一言で言えば、「隠居とは凡人に実現可能な唯一の自由な生き方であり、その奥義は老いることに他ならない」とでもなろうか。

中国の故事によれば、かつて世に稀な大天才がいたのだが、二十歳で心朽ちてしまったと言う。すなわち二十で老人になった。その後どうしたか誰も知らないのは、つまり隠居して幸せに暮らしたのだろう、少なくとも本人は。もちろん、これは稀代の天才にして可能な技である。この本を編んだ荒俣氏は当時、四十五歳。確かにその後は仕事らしい仕事をしていないので、隠居に成功したのだろう。私の場合は、それから修行を積むこと四半世紀余り、そして今漸く隠居したのだが、荒俣氏より少し時間がかかった。

今日久しぶりにこのアンソロジを読み返したのだが、漸くにしてこれを面白く読めるようになっていた。昔は正直に言って、荒俣氏の文章は愉快であるものの、集められている文章の方はさほど楽しめなかった。しかし今、面白い。最後がピーター・S・ビーグルの「心地よく秘密めいたところ」とボリス・ヴィアンの「うたかたの日々」からの抄訳で締められているところなんて、すごくいい。