百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2019年9月25日水曜日

「秀山祭九月大歌舞伎」昼の部、千秋楽

魔法瓶に一合ほど冷酒を詰め、歌舞伎座へ。「秀山祭九月大歌舞伎」昼の部、千秋楽。本当は夜の部で、仁左衛門の「勧進帳」が観たかったのだが、大人気で良い席がとれず。今月は歌舞伎座通いをお休みするかな、と思わないでもなかったが、月一回の贅沢だ。私は役者の誰彼が好きとかこの演目が好きとか言うよりは、わかりきった芝居をお馴染の役者で見ながら、三味線などの音を聞きながら、飲みながら、食べながら、時々うとうとするのが好きなのである。

「極付幡随長兵衛」は幡随院長兵衛に幸四郎、女房お時に雀右衛門、水野十郎左衛門に松緑など。舞台の中に舞台をしつらえた劇中劇で始まる趣向で有名。大昔からどのジャンルにもある趣向とは言え、いかにも歌舞伎らしい気もする。それはさておき、意外にもと言えば失礼だが、幸四郎がなかなか貫禄があって俠客の親分らしかった。

「お祭り」は鳶頭に梅玉、二人の芸者に梅枝と魁春。長い演目の間に、こういうおめでたい踊りが入るのは悪くない。ちなみに私は梅枝の顔が好きだ。浮世絵の美人のような面長の感じが。

「沼津」は呉服屋十兵衛に吉右衛門、雲助平作に歌六、お米に雀右衛門など。安定感のある配役で、吉右衛門と歌六の息もあっている。導入部の楽しいかけあいから、後半「実は……」と真実が判明しての展開は、いかにも歌舞伎らしい演目だなあ、とあらためて思った。今回は、芝居の途中で突然、追善と千秋楽の口上が入ったりもしたので、なおさら歌舞伎らしさを感じたのかも。