百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2019年3月31日日曜日

「人類」についての現在の見通し

現在、種としての人類は発狂しており、精神的自制ほどわれわれに急を要するものはないといったとしても、ほとんど誇張ではない。もしある個人が、その指導理念において、自己や他人にとって危険となるほど、彼の環境に不適応な状態になっているとすれば、われわれは彼を狂気と呼ぶ。この狂気の定義は、現在における全人類にあてはまるように思われるが、(……)
『世界史概観』(H.G.ウェルズ著/長谷川文雄・阿部知二訳/岩波新書)、第70章「『人類』についての現在の見通し」より

2019年3月19日火曜日

いろいろなことと挫折

いろいろなことをやってしまうと、「あの人はいろいろなことがやれる人だ」という錯覚が生まれる。しかし、「いろいろなことがやれる」は結果論であって、なぜ人が「いろいろなこと」をやるのかと言えば、「いろいろなことをやらざるをえないから」であって、その人のやった「いろいろなこと」とは、壁にぶつかったその人が示す、挫折の数であり、試行錯誤の数でしかないのである。
一つのことしかやらないですんでいる人は、「他に能がないから」などと、謙遜して自分を語ったりするが、それは「能がない」ではない。挫折を知らずにすんでいるだけなのである。
『「わからない」という方法』(橋本治/集英社新書)より

2019年3月11日月曜日

高橋先生のこと

先日の三月三日、高橋陽一郎先生がお亡くなりになった。

私が大学四年生の頃、就職をする気もなかったのだが、大学院に行ってどうなるものでもないし、どうしたものかなあ、と思いつつ、先生から「来年どうするの」と訊かれ、「進学しようかなあと……」と口を濁すと、「うん、むいてるかもね」とおっしゃっていただいたのが、先生から本格的にご指導いただく日々の始まりだった。

先輩方からは怖い先生だと聞いていて、実際、怖い先生だったのだが、私が進学したころからは柔らかくなったとのことである。事実、私が厳しく叱責されたのは、以前に「池田先生のこと」に書いた一回だけだった。とは言え、一週間に一回の修士ゼミ、博士ゼミは毎回とても恐しかった。

ゼミでは論文を読んだ話をするか、自分の研究の話をするかだが、後者はもちろん、前者ですら進展がないことがある。学生が皆そうだとなると、どうやって今週のゼミを穏やかにやり過すかという作戦を練る(大体が「継投策」だ)。そして、おそるおそる 4 階の院生室から先生の研究室に降りて行き、びくびくしながらノックをして、今日のゼミをお願いします、と言うわけだ。そして大抵、穏やかには済まされないのだった。

学生の頃の私はあまり意識していなかったが、先生は変わったタイプの数学者だったようだ。一言で言えば、あまり論文を書かない。先生が書いた一番良い論文は学生時代に書いた論文だという悪口も聞いたことがある。しかし、確率論やエルゴード理論や力学系の広い分野で一目も二目も置かれていた。その理由は、表面的には、「(仕事はしないが)頭が良い、キレる」ことと「面白いホラを吹く」ことだったように思う。

数学者の「頭の良さ」には色々あるが、私が感じた先生の鋭さは、問題を初等的な線形代数や微積分のパズルに落とし込む鮮やかな手並みだった。先生は抽象論より、具体的な小さな問題を好んだ。素朴なモデルで本質は言い尽せると思っていて、大きな抽象論は信用していなかった。それだから、と言うべきか、理論構築は苦手だった。そんなスタイルが若い頃に留学していたソ連(ロシア)の数学と関係があるのかどうか、私にはわからない。しかし、独特の深い数学観を持っていた。

「面白いホラを吹く」は数学者独特の言い回しで、(正しいかどうか怪しいが)興味深い方向性を示したり、問題の本質を見抜いたりする、という意味合いである。先生はその意味で、研究を刺激する大きな影響力があったと思う。が、仕事をしない。理論を作るタイプでもない。おそらく、論文のインパクトファクタだけで能力が測られるような当世では、ほとんどいなくなった、ひょっとしたら絶滅した類の数学者かもしれない。

私は先生の某共著論文を読むことから研究の真似事を始めたのだが、後年、先生はその論文について、「自分がもし確率論の研究者だと思われているなら、それは W 先生とあの共著論文を書いたからだ」と私にこぼされた。その論文がご自慢だったのだろう。しかし、その珍しく謙虚な表現に、やはり先生ご自身、生産的でもなければ、理論も作らないことに複雑な思いを持っているのかもしれない、と感じたことであった。しかし、私は先生のようなタイプの数学者が好きだったし、今も好きだ。

晩年の先生は、私が学生だった頃、つまり教養学部基礎科学科第一の頃を、一番楽しかった良い時代として思い返されていたようだ。最も多くの学生に囲まれ、毎週のゼミでわいわいやっていた頃だからだろう。今、私はそのことを一番に嬉しく思う。

2019年3月8日金曜日

三月大歌舞伎

不景気とは言え、月に一度くらいは贅沢をするか。冷酒一合を水筒に詰めて歌舞伎座へ。三越の地下で、筍と海老団子の惣菜と「弁松」の幕の内弁当を買って行く。昼の部、「女鳴神」「傀儡師」「傾城反魂香」。

「女鳴神」は「鳴神」の男と女を逆さまにした演目。鳴神上人ならぬ鳴神尼に孝太郎、雲の絶間姫ならぬ雲野絶間之助に鴈治郎。男の色香に迷わせて鳴神尼から神通力を奪う、水もしたたる二枚目、雲野絶間之助が鴈治郎。鴈治郎が雲野絶間之助ですよ。どうだろうと思ったが、意外にも(失礼)鴈治郎がきっちり美男だったし、孝太郎も良かった。妖怪と化した鳴神尼を討ち取る佐久間玄蕃盛政も鴈治郎。鴈治郎の顔の大きさは無敵。

幸四郎の「傀儡師」。洒落た舞踊だが、味わうのが難しい演目である。が、たまたまこの前の年末の邦楽の会で、解説つきで「傀儡師」を観ていたため、今回なるほどと思いながら楽しめた。私は踊りはわからないのだが、幸四郎が上手にすらすら踊っていた気がする。

「傾城反魂香」序幕は、狩野四郎二郎に幸四郎、銀杏の前に米吉、狩野雅楽之助に鴈治郎など。鴈治郎がまた活躍。二幕目「土佐将監閑居の場」はいわゆる吃又、吃りの又平に白鸚、おとくに猿之助、土佐将監光信に彌十郎など。

観劇の気分を盛り上げるために、『続 歌舞伎への招待』(戸板康二/岩波現代文庫)を持参して合間に読んでいたのだが、たまたま「吃り」の演技を名優の芸談で論じているところに出会い、期待が不自然に高まってしまった。そのせいで白鸚にもうひとつ満足できなかったかも。