百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2018年10月18日木曜日

「芸術祭十月大歌舞伎」昼の部

歌舞伎座の昼の部へ。今月はもちろん夜の部で仁左衛門の助六を観たかったが、(おそらく)助六の演じ納めとのことで満員御礼、もうほぼ席がとれない。しかし、私は落語の「二階ぞめき」の若旦那と同じで、どの役者が好きとかどの芝居がいいとかより、歌舞伎座の雰囲気が全体として好きなので、空いている昼の部の観劇で特に不満はない。

「神雷」純米原酒ひやおろしを一合ほど水筒に詰め、酒器を持って家を出る。三越の地下でお弁当を物色。今年一杯は生誕半世紀フェア実施中だし、老い先短い身の上、思い切って贅沢をしようと、「美濃吉」で三段御重の弁当を買って、足取りも軽く歌舞伎座へ。

「三人吉三巴白浪」は、お嬢吉三に七之助、お坊吉三に巳之助、和尚吉三に獅童と、若々しい配役。私は七之助の声は好きなのだが、黙阿弥の名台詞にはまだまだの感。ここぞ待ってましたのところなので、もっとこってり、たっぷりと、古典的にやっていただきたい。あと、この大川端の場は春にやらないとさすがに興醒めなのでは。

「大江山酒呑童子」は、酒呑童子を勘九郎など。元気良く、またキレも良く踊っていたが、それ以上なのかそれだけなのか、私は踊りが良く分からないので何とも言えない。「佐倉義民伝」は、木内宗吾に白鸚、おさんに七之助、幻の長吉に彌十郎など。白鸚は貫禄。彌十郎が短い出番だが悪人を上手に演じて印象的だった。

帰りにパン屋でクロワサン、花屋で薔薇、スーパーでビールを買って帰宅。



2018年10月4日木曜日

あからさまな情熱

われわれが認識できるのは他人の情熱だけで、われわれ自身の情熱については他人から教わって知りうるにすぎない。情熱がわれわれに作用をおよぼすのは想像力を介した二次的作用で、想像力が、最初の動機の代わりにはるかに慎ましい媒介動機をつくりだすのである。けっしてルグランダンのスノビスムが、頻繁にどこかの公爵夫人に会いに行くよう勧めたわけではない。スノビスムのせいで、ルグランダンの想像力が、その公爵夫人はあらゆる魅力を備えていると想いこんだまでの話である。ルグランダンとしては、公爵夫人と近づきになるのは、下劣なスノッブどもにはわからない才気と美徳の魅力に惹かれたからだと考えたにすぎない。ルグランダンもスノッブの一員だとわかっていたのは、他人だけである。というのも他人は、彼の想像力が果たしている媒介作用が理解できないおかげで、ルグランダンの社交活動とその第一要因を並列して見るからである。
 『失われた時を求めて 1』(プルースト/吉川一義訳/岩波文庫)より。(第一篇「スワン家のほうへ I」、第一部「コンブレー」、二)