百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2018年8月20日月曜日

「八月納涼歌舞伎」第一部

夏と言ってもどこかにヴァカンスに行くわけでもなく、自宅にひきこもりの毎日なので、暑さの隙をついて歌舞伎を観に行く。三越の地下でばらちらしを買い、歌舞伎座へ。「八月納涼歌舞伎」第一部。「花魁草」、「龍虎」、新作「心中月夜星野屋」。

 「花魁草」はお蝶に扇雀、幸太郎に獅童など。扇雀は哀れな年増の情感をうまく演じていたような。

「龍虎」は幸四郎と染五郎。踊りはよくわからないが、息はあっていたのでは。それはさておき、いまだにこの二人の名前に慣れない。

「心中月夜星野屋」は小佐田定雄の脚本による新作歌舞伎。星野屋照蔵に中車、おたかに七之助、その母お熊に獅童。肩の凝らない世話狂言で、落語か俳優祭のような楽しい雰囲気。それぞれの役に、現代的で芸達者な俳優たちが全員ぴたっとはまっていて、気分良く笑える良い舞台だった。脚本も面白いが、配役でなお成功した感じ。

「納涼歌舞伎」は三部制なので、時間が短かく見疲れないのが良い。しかし、歌舞伎は観る側もあれこれ準備して、一日がかりで観劇するところが楽しさの肝でもある。個人的には基本は二部制で、たまに三部制くらいがいいかなあ。


2018年8月7日火曜日

文法と論理学

「私は常に文法や論理学を擁護する人たちを尊敬してきました。五十年後になったら分かるのです。そうした人たちが大いなる危険を回避してくれたことが。」
「失われた時を求めて」(M. プルースト著/鈴木道彦訳/集英社文庫)、第 12 巻(第七篇「見出された時」)よりシャルリュス男爵の言葉

2018年8月6日月曜日

ヴェルデュラン夫人とクロワッサン

彼女は、新聞がルシタニア号の遭難を報じた日の朝、久々にその最初のクロワッサンにありついた。カフェ・オ・レにクロワッサンをひたしながら、そして手をパンから離すまでもなく、もう一方の手で新聞を大きく広げられるように軽く新聞をはじきながら、彼女は言うのだった。「なんて恐ろしい! どんなにむごい悲劇だって、こんなに恐ろしいことなんかありゃしないわ」。しかしこれらすべての溺死者たちの死も、彼女には十億分の一に縮小されて見えたにちがいない。なぜなら、口いっぱいに頬張りながらそのように悲しい考察をしたときに、彼女の顔に浮かんだのは、おそらく偏頭痛を鎮めるためにたいそう有効なクロワッサンの味に引き寄せられたのだろう、むしろ穏やかな満足の表情だったからだ。
「失われた時を求めて」(M. プルースト著/鈴木道彦訳/集英社文庫)、第 12 巻(第七篇「見出された時」)より

愚かさと情熱

どこの国でも一番数が多いのは愚か者である。もし彼がドイツに住んでいたら、愚かにも情熱をこめて不正な立場を擁護するドイツの愚か者たちにすっかりいらいらしたことは、疑いの余地がない。けれどもフランスに住んでいたので、愚かにも情熱をこめて正しい立場を擁護するフランスの愚か者たちが、やはり彼をいらだたせた。情熱の論理は、たとえ最も正当な権利に奉仕する場合でも、情熱にかられない人にとってはけっして反駁できないものではない。シャルリュス氏は愛国者たちの誤まった理屈を、一つひとつ巧妙に指摘した。正当な権利にすっかり満足している間抜けな者や、成功を確信している者は、とくに人をいらいらさせる。
「失われた時を求めて」(M. プルースト著/鈴木道彦訳/集英社文庫)、第 12 巻(第七篇「見出された時」)より

2018年8月1日水曜日

若さの幻想

以前から私は、仕事をしたい、失われた時をとりもどしたい、生活を変えたい、というよりむしろ本当の生活を始めたい、と考えていたが、そうした気持が続いているために、自分が以前と同じように若いのだという幻想を持っていた。
「失われた時を求めて」(M. プルースト著/鈴木道彦訳/集英社文庫)、第 11 巻(第六篇「逃げ去る女」)より