百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2017年8月30日水曜日

校了

昨日、念校のチェック箇所の反映を確認して、校了。もうこの後、私にできることはなく、(本当に出版されるなら)出版を待つだけなので、シャンパンで自分にお疲れ様。

測度論、(ルベーグ)積分論、測度論的確率論の初歩のあたりをカバーする入門的教科書なのだが、このジャンルには(読者の少なさのわりには)既に、沢山の本が出版されている。さすがに、もう十分なのではないか、という気もする。私自身、定番的な教科書二冊(Williams, Capinski-Kopp)に共訳者として携わったので、訳書も含めればこれが三冊目だ。

しかし、最近、数学以外の分野の学習者から、現代的な確率論の基礎を学びたい、測度論を知りたい、と言う声を良く聞くわりには、非専門家向けの適当な教科書がないのではないか、と出版社の方がおっしゃるので、まあそう言えなくもないかなあ、とその気にさせられたわけである。主旨としては、数学が専門ではない理工系の読者を対象に(面倒な証明は省略可能)、コンパクトに必要事項をまとめ(全体で 160 ページ以内)、しかも、なぜそう考えるのかは親切に説明する(前の要請と対立するが)、という感じ。

先日、知り合いの方とお話していたときに、近頃出版された T.タオの本の話題から、測度論の教科書の話になった。どうやら最近、測度論がはやっているのではないか。ここでさらにもう一冊出すのは「駄目押し」って感じですね、などと笑ったのだが、実際、本来の囲碁の意味で駄目を置いただけにならないか、ちょっと不安。

2017年8月23日水曜日

「死にいたる病」

前に引用したように、キルケゴールが大事なんじゃないかと思うようになり、しばらく就眠儀式として少しずつ「死にいたる病」(S.キルケゴール著/桝田啓三郎訳/ちくま学芸文庫)を読んでいた。昨夜、読了。なんだかすごいことが書いてあるみたいだぞ、と同時に、こりゃ敵わんなあ、もしくは、どうしようもないなあ、という感。

私の理解が正しければキルケゴールは、絶望と罪を「神の前にただ独りで立つ」ことを軸に論じ、まさにそのことで真の「キリスト者」たることを論じているので、それはどこまでもその人自身だけの、誰にも伝えられず、伝えることにも意味がない問題である。その不可能性を信仰で乗り越えるのがキリスト教であり、またキルケゴールの方法なので、ぎりぎりのところで「信じるか、躓くか」しかない。つまり、異教徒であり、また信仰も持たないため、信じることも躓くこともできない私のような人間には、どうしようもない。

とは言え、一番大事なこと、他のことが全て無意味になるほど大事なことは、(私の立場からすれば、もしそういったものがあるとすれば、だが)、他人に伝えたり他人と関わることが全く不可能なほど徹底的に個人的な問題であり、また、論理的、客観的には原理的に表現不可能な領域にある問題であり、究極的には「信仰」によってしか解き明かせない問題である、という一点こそが、異教徒や不信心者にはなかなか理解できないまでも、一番大事なことなのだろう、とは思った。

2017年8月18日金曜日

お化けと隠居

隠居して毎日なにしてるんですかと訊かれると困って、「いろいろ」と答えていた。しかしこの頃になって、荒俣宏が「大都会隠居術」(光文社)で隠居とお化け(妖怪)の類似性を指摘していたことがあれこれ腑に落ちるようになり、「妖怪のような暮らし」とか「ゲゲゲの鬼太郎の主題歌のような毎日」と答えれば正しいと思うようになった。

誰でも人間や社会に愛想がつきて、お化けか妖怪のように暮らせればいいなあ、と思うことがある。なにせ、お化けにゃ学校も試験もないし、会社も仕事もないし、死なないし病気にもならない。朝は寝床でぐうぐうぐう、昼はのんびりお散歩だ。その究極の贅沢を「老い」という手段で実現するのが隠居である。

とは言え、私も夜は墓場で運動会をしているわけではない。

2017年8月17日木曜日

英単語

英語で書かれたものを読むときには、意味が分からない語が頻繁に現れるので "OALD" を傍らに置いているのだが、大抵これだけで用が足りてしまう。ちなみに英英辞書とは言っても、文法の初歩的な説明や、絵やイラストが沢山入っている、英語学習者向けの辞書である。

と言うことは、私の英単語力は高校生の頃からさして進歩していない。いや、辞書を引く頻度や、引く語からして、後退している気がする。

2017年8月11日金曜日

夏の読書

隠居に土日も祝日も盆も正月もないのだが、生活のリズムをとるため、世間のカレンダにあわせて一日の過し方を変えるようにしている。

そんなわけで、数日仕事やルーチンワークを停止して、家でのんびり気楽な本など読んで休む予定。お供は「ホット・ロック」(D.E.ウエストレーク著/平井イサク訳/角川文庫)、「ラブラバ」(E.レナード著/鷺村達也訳/ハヤカワ文庫)、「耳をすます壁」(M.ミラー著/柿沼瑛子訳/創元推理文庫)、「逆転世界」(C.プリースト著/安田均訳/創元SF文庫)、など。

2017年8月9日水曜日

エアコン新調

今日の午後、一時から三時の二時間かかって、故障していた居間のエアコンの代替機の設置工事。結局、おそらくこの夏で一番暑い二時間に工事することになり、業者の方には気の毒な感じ。明日以降、東京で猛暑日はなかったりして……

涼しい居間で、「スローターハウス5」(K.ヴォネガット・ジュニア著/伊藤典夫訳/ハヤカワ文庫)を読む。

2017年8月5日土曜日

絶望

最近、キルケゴールがすごく大事なんじゃないかな、と思うのだが、読んでみると難解過ぎてほとんど良く分からなくて、これは「キリスト者」でないとどうにもならないのかも知れない、とも思うものの、やはり大事なんだろうと思う。

ああ、しかし、いつか砂時計が、時間性(このよ)の砂時計がめぐり終わるときがきたら、俗世の喧騒が沈黙し、休む間もない、無益なせわしなさが終わりを告げるときがきたら、きみの周囲にあるすべてのものが永遠のうちにあるかのように静まりかえるときがきたら — そのときには、きみが男であったか女であったか、金持ちであったか貧乏であったか、他人の従属者であったか独立人であったか、幸福であったか不幸であったか、また、きみが王位にあって王冠の光輝を帯びていたか、それとも、人目につかぬ賤しい身分としてその日その日の労苦と暑さとを忍んでいたか、きみの名がこの世のつづくかぎり人の記憶に残るものか、事実またこの世のつづいたかぎり記憶に残ってきたか、それともきみは名前もなく、無名人として、数知れぬ大衆にまじっていっしょに駆けずりまわっていたか、またきみを取り巻く栄光はあらゆる人間的な描写を凌駕していたか、それともこの上なく苛酷で不名誉きわまる判決がきみにくだされたか、このようなことにかかわりなく、永遠はきみに向かって、そしてこれらの幾百万、幾千万の人間のひとりひとりに向かって、ただ一つ、次のように尋ねるのだ、きみは絶望して生きてきたかどうか、きみはきみが絶望していたことを知らなかったような絶望の仕方をしていたのか、それとも、きみはこの病を、責めさいなむ秘密として、あたかも罪深い愛の果実をきみの胸のなかに隠すように、きみの心の奥底に隠し持っていたような絶望の仕方をしていたのか、それともまた、きみは、他の人々の恐怖でありながら、実は絶望のうちに荒れ狂っていたというような絶望の仕方をしていたのか、と。
「死にいたる病」(S.キルケゴール著/桝田啓三郎訳/ちくま学芸文庫)より