ああ、しかし、いつか砂時計が、時間性(このよ)の砂時計がめぐり終わるときがきたら、俗世の喧騒が沈黙し、休む間もない、無益なせわしなさが終わりを告げるときがきたら、きみの周囲にあるすべてのものが永遠のうちにあるかのように静まりかえるときがきたら — そのときには、きみが男であったか女であったか、金持ちであったか貧乏であったか、他人の従属者であったか独立人であったか、幸福であったか不幸であったか、また、きみが王位にあって王冠の光輝を帯びていたか、それとも、人目につかぬ賤しい身分としてその日その日の労苦と暑さとを忍んでいたか、きみの名がこの世のつづくかぎり人の記憶に残るものか、事実またこの世のつづいたかぎり記憶に残ってきたか、それともきみは名前もなく、無名人として、数知れぬ大衆にまじっていっしょに駆けずりまわっていたか、またきみを取り巻く栄光はあらゆる人間的な描写を凌駕していたか、それともこの上なく苛酷で不名誉きわまる判決がきみにくだされたか、このようなことにかかわりなく、永遠はきみに向かって、そしてこれらの幾百万、幾千万の人間のひとりひとりに向かって、ただ一つ、次のように尋ねるのだ、きみは絶望して生きてきたかどうか、きみはきみが絶望していたことを知らなかったような絶望の仕方をしていたのか、それとも、きみはこの病を、責めさいなむ秘密として、あたかも罪深い愛の果実をきみの胸のなかに隠すように、きみの心の奥底に隠し持っていたような絶望の仕方をしていたのか、それともまた、きみは、他の人々の恐怖でありながら、実は絶望のうちに荒れ狂っていたというような絶望の仕方をしていたのか、と。「死にいたる病」(S.キルケゴール著/桝田啓三郎訳/ちくま学芸文庫)より
百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より
2017年8月5日土曜日
絶望
最近、キルケゴールがすごく大事なんじゃないかな、と思うのだが、読んでみると難解過ぎてほとんど良く分からなくて、これは「キリスト者」でないとどうにもならないのかも知れない、とも思うものの、やはり大事なんだろうと思う。