百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2017年8月23日水曜日

「死にいたる病」

前に引用したように、キルケゴールが大事なんじゃないかと思うようになり、しばらく就眠儀式として少しずつ「死にいたる病」(S.キルケゴール著/桝田啓三郎訳/ちくま学芸文庫)を読んでいた。昨夜、読了。なんだかすごいことが書いてあるみたいだぞ、と同時に、こりゃ敵わんなあ、もしくは、どうしようもないなあ、という感。

私の理解が正しければキルケゴールは、絶望と罪を「神の前にただ独りで立つ」ことを軸に論じ、まさにそのことで真の「キリスト者」たることを論じているので、それはどこまでもその人自身だけの、誰にも伝えられず、伝えることにも意味がない問題である。その不可能性を信仰で乗り越えるのがキリスト教であり、またキルケゴールの方法なので、ぎりぎりのところで「信じるか、躓くか」しかない。つまり、異教徒であり、また信仰も持たないため、信じることも躓くこともできない私のような人間には、どうしようもない。

とは言え、一番大事なこと、他のことが全て無意味になるほど大事なことは、(私の立場からすれば、もしそういったものがあるとすれば、だが)、他人に伝えたり他人と関わることが全く不可能なほど徹底的に個人的な問題であり、また、論理的、客観的には原理的に表現不可能な領域にある問題であり、究極的には「信仰」によってしか解き明かせない問題である、という一点こそが、異教徒や不信心者にはなかなか理解できないまでも、一番大事なことなのだろう、とは思った。