百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2018年1月25日木曜日

嵐の海

大海で風が波を掻き立てている時,陸の上から他人の苦労をながめているのは面白い.他人が困っているのが面白い楽しみだと云うわけではなく,自分はこのような不幸に遭っているのではないと自覚することが楽しいからである.野にくりひろげられる戦争の,大合戦を自分がその危険に関与せずに,見るのは楽しい.とはいえ,何ものにも増して楽しいことは,賢者の学問を以て築き固められた平穏な殿堂にこもって,高処から人を見下し,彼らが人生の途を求めてさまよい,あちらこちらと踏み迷っているのを眺めていられることである — 才を競い,身分の上位を争い,日夜甚しい辛苦をつくし,富の頂上を極めんものと,又権力を占めんものと,齷齪するのを眺めていられることである.
おお 憐む可き人の心よ,おお 盲目なる精神よ!此の如何にも短い一生が,なんたる人生の暗黒の中に,何と大きな危険の中に,過ごされていくことだろう!
「物の本質について」(ルクレーティウス著/樋口勝彦訳/岩波文庫)より

2018年1月17日水曜日

池田先生のこと

昨日 1 月 16 日に池田信行先生がご逝去されたことを確率論メイリングリストで知る。

池田先生は伊藤清先生のすぐ下の世代で、日本の確率論の初期を代表する方だったと思う。今では日本の確率論は非常に大きな勢力となって、細分したグループそれぞれが既にかなりのサイズなので、確率論全体を一つにまとめるような方を思い浮かべることは難しい。池田先生は親分肌でもあり、そういう日本の確率論全体のリーダーだった。

私が池田先生の名前を知ったのは大学院生の頃で、もちろん、確率論を真面目に勉強しようとすると、当然 ``Ikeda-Watanabe" の名前を知るのである。私も修士の一年で読み始めた教科書がこれだった。私の指導教官は高橋陽一郎先生だったが、高橋先生は池田先生と親しく、また尊敬もされていたようである。例えば、Mark Kac の数学に強い興味を持っていたことや、数学のスタイルなど、今になって思えば、かなりの影響を受けていたと思う。

やはり院生のとき、池田先生の研究ノートのコピーを私がゼミで読むことになった。しかし、私の準備がまるで不満足なものだったので、高橋先生から「君には池田先生のノートを読む資格はない」と強く叱責されたことは、今思い出しても身の縮むような、また辛い記憶である。

そののち、学位をとってから立命館大学に就職して、池田先生とは同僚の関係になった。数学そのものについては、生焼けで失敗作の共著論文を一本書かせていただいただけで、私自身の非力と不真面目を後悔するしかない。しかし、日本の確率論発展の初期の頃の様々なエピソードなど、あれこれと身近に教えていただいたことは、ありがたくも貴重なことであった。

池田先生はその頃から数年で退職され、私もそのあとまた数年で大学を辞めたので、すっかり疎遠になっていた(池田先生は私の辞職にかなりご不興だったと聞く)。しかし、学会に顔を出されていたなどと人伝に聞いては、ご健勝ぶりを喜んでいたものであった。かなりの御年だったので大往生のはずと信じるが、寂しいことである。

2018年1月10日水曜日

初芝居は「黒蜥蜴」

日生劇場に「黒蜥蜴」を観に行く。少し早く到着したので、日比谷公園へ。おお、これが瑞兆を報せて歌を歌うと噂の、鶴の噴水かァ。そしてこの地下には神田上水の大伏樋のラビリンスが広がっているのだなあなどと思いつつ、公園を散策してから、劇場へ。

「黒蜥蜴」はもちろん江戸川乱歩原作、三島由紀夫脚本。今回は中谷美紀/井上芳雄主演、D.ルヴォー演出。やはり三島由紀夫の台詞はいい。

中谷美紀さんは綺麗で妖しげな雰囲気が黒蜥蜴らしくて良いし、熱演だったが、演劇の舞台では魅力全開とまでは行かなかったか。黒蜥蜴は誰が演じても、若い頃の美輪明宏さんと比較されてしまうので難しそう(とは言え、私の黒蜥蜴イメージは昔 TV ドラマで演じていた島田陽子さんだが)。

 演出や舞台装置は効率良くシャープで現代的、一言で言えば "neat" 。私は普段、歌舞伎ばかり観ているので、もっと大仰でもいいのに、とは思った。例えば、「このやさしい、二の腕の、黒蜥蜴を!」あたりで、チョーンと柝の音が入って明転してもいいくらい(笑)。

でも、長い時間を全く飽きずに観られたし、良い舞台だったと思う。幕後は観客みな standing ovation。今日はオマケに終演後、D.ルヴォーの「マスタークラス」と称するインタビュー企画もあってお得だった。