われわれは、全地から、そしてわれわれがいなくなってから後に来るであろう人たちからさえ知られたいと願うほど思い上がった者であり、またわれわれをとりまく五、六人からの尊敬で喜ばせられ、満足させられるほどむなしいものである。パスカル『パンセ』(前田陽一・由木康訳/中公文庫)、第二章「神なき人間の惨めさ」、一四八
百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より
2019年6月27日木曜日
思い上がりとむなしさ
2019年3月11日月曜日
高橋先生のこと
先日の三月三日、高橋陽一郎先生がお亡くなりになった。
私が大学四年生の頃、就職をする気もなかったのだが、大学院に行ってどうなるものでもないし、どうしたものかなあ、と思いつつ、先生から「来年どうするの」と訊かれ、「進学しようかなあと……」と口を濁すと、「うん、むいてるかもね」とおっしゃっていただいたのが、先生から本格的にご指導いただく日々の始まりだった。
先輩方からは怖い先生だと聞いていて、実際、怖い先生だったのだが、私が進学したころからは柔らかくなったとのことである。事実、私が厳しく叱責されたのは、以前に「池田先生のこと」に書いた一回だけだった。とは言え、一週間に一回の修士ゼミ、博士ゼミは毎回とても恐しかった。
ゼミでは論文を読んだ話をするか、自分の研究の話をするかだが、後者はもちろん、前者ですら進展がないことがある。学生が皆そうだとなると、どうやって今週のゼミを穏やかにやり過すかという作戦を練る(大体が「継投策」だ)。そして、おそるおそる 4 階の院生室から先生の研究室に降りて行き、びくびくしながらノックをして、今日のゼミをお願いします、と言うわけだ。そして大抵、穏やかには済まされないのだった。
学生の頃の私はあまり意識していなかったが、先生は変わったタイプの数学者だったようだ。一言で言えば、あまり論文を書かない。先生が書いた一番良い論文は学生時代に書いた論文だという悪口も聞いたことがある。しかし、確率論やエルゴード理論や力学系の広い分野で一目も二目も置かれていた。その理由は、表面的には、「(仕事はしないが)頭が良い、キレる」ことと「面白いホラを吹く」ことだったように思う。
数学者の「頭の良さ」には色々あるが、私が感じた先生の鋭さは、問題を初等的な線形代数や微積分のパズルに落とし込む鮮やかな手並みだった。先生は抽象論より、具体的な小さな問題を好んだ。素朴なモデルで本質は言い尽せると思っていて、大きな抽象論は信用していなかった。それだから、と言うべきか、理論構築は苦手だった。そんなスタイルが若い頃に留学していたソ連(ロシア)の数学と関係があるのかどうか、私にはわからない。しかし、独特の深い数学観を持っていた。
「面白いホラを吹く」は数学者独特の言い回しで、(正しいかどうか怪しいが)興味深い方向性を示したり、問題の本質を見抜いたりする、という意味合いである。先生はその意味で、研究を刺激する大きな影響力があったと思う。が、仕事をしない。理論を作るタイプでもない。おそらく、論文のインパクトファクタだけで能力が測られるような当世では、ほとんどいなくなった、ひょっとしたら絶滅した類の数学者かもしれない。
私は先生の某共著論文を読むことから研究の真似事を始めたのだが、後年、先生はその論文について、「自分がもし確率論の研究者だと思われているなら、それは W 先生とあの共著論文を書いたからだ」と私にこぼされた。その論文がご自慢だったのだろう。しかし、その珍しく謙虚な表現に、やはり先生ご自身、生産的でもなければ、理論も作らないことに複雑な思いを持っているのかもしれない、と感じたことであった。しかし、私は先生のようなタイプの数学者が好きだったし、今も好きだ。
晩年の先生は、私が学生だった頃、つまり教養学部基礎科学科第一の頃を、一番楽しかった良い時代として思い返されていたようだ。最も多くの学生に囲まれ、毎週のゼミでわいわいやっていた頃だからだろう。今、私はそのことを一番に嬉しく思う。
私が大学四年生の頃、就職をする気もなかったのだが、大学院に行ってどうなるものでもないし、どうしたものかなあ、と思いつつ、先生から「来年どうするの」と訊かれ、「進学しようかなあと……」と口を濁すと、「うん、むいてるかもね」とおっしゃっていただいたのが、先生から本格的にご指導いただく日々の始まりだった。
先輩方からは怖い先生だと聞いていて、実際、怖い先生だったのだが、私が進学したころからは柔らかくなったとのことである。事実、私が厳しく叱責されたのは、以前に「池田先生のこと」に書いた一回だけだった。とは言え、一週間に一回の修士ゼミ、博士ゼミは毎回とても恐しかった。
ゼミでは論文を読んだ話をするか、自分の研究の話をするかだが、後者はもちろん、前者ですら進展がないことがある。学生が皆そうだとなると、どうやって今週のゼミを穏やかにやり過すかという作戦を練る(大体が「継投策」だ)。そして、おそるおそる 4 階の院生室から先生の研究室に降りて行き、びくびくしながらノックをして、今日のゼミをお願いします、と言うわけだ。そして大抵、穏やかには済まされないのだった。
学生の頃の私はあまり意識していなかったが、先生は変わったタイプの数学者だったようだ。一言で言えば、あまり論文を書かない。先生が書いた一番良い論文は学生時代に書いた論文だという悪口も聞いたことがある。しかし、確率論やエルゴード理論や力学系の広い分野で一目も二目も置かれていた。その理由は、表面的には、「(仕事はしないが)頭が良い、キレる」ことと「面白いホラを吹く」ことだったように思う。
数学者の「頭の良さ」には色々あるが、私が感じた先生の鋭さは、問題を初等的な線形代数や微積分のパズルに落とし込む鮮やかな手並みだった。先生は抽象論より、具体的な小さな問題を好んだ。素朴なモデルで本質は言い尽せると思っていて、大きな抽象論は信用していなかった。それだから、と言うべきか、理論構築は苦手だった。そんなスタイルが若い頃に留学していたソ連(ロシア)の数学と関係があるのかどうか、私にはわからない。しかし、独特の深い数学観を持っていた。
「面白いホラを吹く」は数学者独特の言い回しで、(正しいかどうか怪しいが)興味深い方向性を示したり、問題の本質を見抜いたりする、という意味合いである。先生はその意味で、研究を刺激する大きな影響力があったと思う。が、仕事をしない。理論を作るタイプでもない。おそらく、論文のインパクトファクタだけで能力が測られるような当世では、ほとんどいなくなった、ひょっとしたら絶滅した類の数学者かもしれない。
私は先生の某共著論文を読むことから研究の真似事を始めたのだが、後年、先生はその論文について、「自分がもし確率論の研究者だと思われているなら、それは W 先生とあの共著論文を書いたからだ」と私にこぼされた。その論文がご自慢だったのだろう。しかし、その珍しく謙虚な表現に、やはり先生ご自身、生産的でもなければ、理論も作らないことに複雑な思いを持っているのかもしれない、と感じたことであった。しかし、私は先生のようなタイプの数学者が好きだったし、今も好きだ。
晩年の先生は、私が学生だった頃、つまり教養学部基礎科学科第一の頃を、一番楽しかった良い時代として思い返されていたようだ。最も多くの学生に囲まれ、毎週のゼミでわいわいやっていた頃だからだろう。今、私はそのことを一番に嬉しく思う。
2019年1月12日土曜日
Almost Over
老人は、眼鏡を注意深く片方ずつ耳にかけた。「わしは、日々生き残るってことについては十分な知識を持っとる。世間でわしくらいその道の専門家はいないよ。それでどのくらい助かったことか。わしの人生、二語でいえるのだが、きみ、知りたいと思わんかい?」老人は胸のつぶれる思いで、もう一度棺を見下ろした。「二語でだぞ!」というなりダイアモンドはもう絶叫していた。「もう少しだ(Almost)! 終った(Over)! この二語のおかげで、わしは信じてもおらん神に日々感謝しとるのよ」『チャーリー・ヘラーの復讐』(R.リテル/北村太郎訳/新潮文庫)より
2018年8月6日月曜日
ヴェルデュラン夫人とクロワッサン
彼女は、新聞がルシタニア号の遭難を報じた日の朝、久々にその最初のクロワッサンにありついた。カフェ・オ・レにクロワッサンをひたしながら、そして手をパンから離すまでもなく、もう一方の手で新聞を大きく広げられるように軽く新聞をはじきながら、彼女は言うのだった。「なんて恐ろしい! どんなにむごい悲劇だって、こんなに恐ろしいことなんかありゃしないわ」。しかしこれらすべての溺死者たちの死も、彼女には十億分の一に縮小されて見えたにちがいない。なぜなら、口いっぱいに頬張りながらそのように悲しい考察をしたときに、彼女の顔に浮かんだのは、おそらく偏頭痛を鎮めるためにたいそう有効なクロワッサンの味に引き寄せられたのだろう、むしろ穏やかな満足の表情だったからだ。「失われた時を求めて」(M. プルースト著/鈴木道彦訳/集英社文庫)、第 12 巻(第七篇「見出された時」)より
2018年7月28日土曜日
隠棲
一定の年齢に達したら、人間は名前を変えて、どこか目立たぬ一隅に隠れ住むべきである。誰とも面識がなく、友人や敵に再会する危険もまたなく、仕事に飽き疲れた悪人のようにして、安らかな生涯を終えられる場所に。「生誕の災厄」(E.M.シオラン著/出口裕弘訳/紀伊國屋書店)より
2018年6月23日土曜日
田舎の流儀
田舎では昔、枕を使って老人を窒息させたものだという。賢明な処置であり、各家庭がそうした流儀に磨きをかけていた。老人たちを寄せ集め、柵のなかに閉じこめ、退屈を救ってやったあげく痴呆状態に追いこむのよりは、はるかに人間らしい手立てではないか。「生誕の災厄」(E.M.シオラン著/出口裕弘訳/紀伊國屋書店)より
2018年3月17日土曜日
水時計
われわれは毎日死んでいるということです。つまり毎日毎日生命の一部分は取り去られているのです。われわれが成長しているときでさえも、生命は減少しています。われわれはまず幼児期を、次に少年期を、次には青年期を失っているのです。昨日に至るまで、経過した時はいずれもみな消滅しました。いや、現にわれわれが過ごしている今日でさえも、われわれはそれを死と分け合っています。水時計の水を空にするのは最後の一滴ではなく、その前に流れ出たすべてです。「セネカ 道徳書簡集」(茂手木元蔵訳/東海大学出版会)、第二十四より
2018年1月17日水曜日
池田先生のこと
昨日 1 月 16 日に池田信行先生がご逝去されたことを確率論メイリングリストで知る。
池田先生は伊藤清先生のすぐ下の世代で、日本の確率論の初期を代表する方だったと思う。今では日本の確率論は非常に大きな勢力となって、細分したグループそれぞれが既にかなりのサイズなので、確率論全体を一つにまとめるような方を思い浮かべることは難しい。池田先生は親分肌でもあり、そういう日本の確率論全体のリーダーだった。
私が池田先生の名前を知ったのは大学院生の頃で、もちろん、確率論を真面目に勉強しようとすると、当然 ``Ikeda-Watanabe" の名前を知るのである。私も修士の一年で読み始めた教科書がこれだった。私の指導教官は高橋陽一郎先生だったが、高橋先生は池田先生と親しく、また尊敬もされていたようである。例えば、Mark Kac の数学に強い興味を持っていたことや、数学のスタイルなど、今になって思えば、かなりの影響を受けていたと思う。
やはり院生のとき、池田先生の研究ノートのコピーを私がゼミで読むことになった。しかし、私の準備がまるで不満足なものだったので、高橋先生から「君には池田先生のノートを読む資格はない」と強く叱責されたことは、今思い出しても身の縮むような、また辛い記憶である。
そののち、学位をとってから立命館大学に就職して、池田先生とは同僚の関係になった。数学そのものについては、生焼けで失敗作の共著論文を一本書かせていただいただけで、私自身の非力と不真面目を後悔するしかない。しかし、日本の確率論発展の初期の頃の様々なエピソードなど、あれこれと身近に教えていただいたことは、ありがたくも貴重なことであった。
池田先生はその頃から数年で退職され、私もそのあとまた数年で大学を辞めたので、すっかり疎遠になっていた(池田先生は私の辞職にかなりご不興だったと聞く)。しかし、学会に顔を出されていたなどと人伝に聞いては、ご健勝ぶりを喜んでいたものであった。かなりの御年だったので大往生のはずと信じるが、寂しいことである。
池田先生は伊藤清先生のすぐ下の世代で、日本の確率論の初期を代表する方だったと思う。今では日本の確率論は非常に大きな勢力となって、細分したグループそれぞれが既にかなりのサイズなので、確率論全体を一つにまとめるような方を思い浮かべることは難しい。池田先生は親分肌でもあり、そういう日本の確率論全体のリーダーだった。
私が池田先生の名前を知ったのは大学院生の頃で、もちろん、確率論を真面目に勉強しようとすると、当然 ``Ikeda-Watanabe" の名前を知るのである。私も修士の一年で読み始めた教科書がこれだった。私の指導教官は高橋陽一郎先生だったが、高橋先生は池田先生と親しく、また尊敬もされていたようである。例えば、Mark Kac の数学に強い興味を持っていたことや、数学のスタイルなど、今になって思えば、かなりの影響を受けていたと思う。
やはり院生のとき、池田先生の研究ノートのコピーを私がゼミで読むことになった。しかし、私の準備がまるで不満足なものだったので、高橋先生から「君には池田先生のノートを読む資格はない」と強く叱責されたことは、今思い出しても身の縮むような、また辛い記憶である。
そののち、学位をとってから立命館大学に就職して、池田先生とは同僚の関係になった。数学そのものについては、生焼けで失敗作の共著論文を一本書かせていただいただけで、私自身の非力と不真面目を後悔するしかない。しかし、日本の確率論発展の初期の頃の様々なエピソードなど、あれこれと身近に教えていただいたことは、ありがたくも貴重なことであった。
池田先生はその頃から数年で退職され、私もそのあとまた数年で大学を辞めたので、すっかり疎遠になっていた(池田先生は私の辞職にかなりご不興だったと聞く)。しかし、学会に顔を出されていたなどと人伝に聞いては、ご健勝ぶりを喜んでいたものであった。かなりの御年だったので大往生のはずと信じるが、寂しいことである。
2017年11月30日木曜日
ヒュームの死
氏は答えて、氏自身もこの満足を非常に強く感じているので、その数日前、ルキアノスの「死者達の対話」を読んでいるとき、カロンに向ってその渡し舟にやすやすと乗りこまないために持ち出されているあらゆる弁解のなかに、一つとして自分にとって適当なものは見出しえなかったといいました。氏は仕上げるべき家をもたず、支度をしてやる娘をもたず、復讐を願う敵ももっていませんでした。……アダム・スミス書簡(ウィリアム・ストローン宛)より、D.ヒュームの最期の描写。「奇蹟論・迷信論・自殺論」(D.ヒューム著/福鎌忠恕・斎藤繁雄訳/法政大学出版局)に所収。
2017年10月21日土曜日
自由の人と死
定理六七 自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして彼の智恵は死についての省察ではなくて、生についての省察である。スピノザ「エチカ」(畠中尚志訳/岩波文庫)、第四部「人間の隷属あるいは感情の力について」より
証明 自由の人すなわち理性の指図のみに従って生活する人は、死に対する恐怖に支配されない(この部の定理六三により)。むしろ彼は直接に善を欲する(同定理の系により)。言いかえれば彼は(この部の定理二四により)自己自身の利益を求める原則に基づいて、行動し、生活し、自己の有を維持しようと欲する。したがって彼は何についてよりも死について思惟することが最も少なく、彼の智恵は生についての省察である。Q.E.D.
2017年10月12日木曜日
二つの人生
私たちには誰でも二つの人生がある。フェルナンド・ペソア「[新編] 不穏の書、断章」 (澤田直訳/平凡社ライブラリー)より
真の人生は、子供のころ夢見ていたもの。
大人になっても、霧の中で見つづけているもの。
偽の人生は、他の人びとと共有するもの。
実用生活、役に立つ暮らし。
棺桶の中で終わる生。
2017年9月27日水曜日
鬢糸
人間も五十近くまで生きれば、やりたいことは大概やつてしまふものである。昔と違つて、そこで隠居する訳には行かないのは余り嬉しいことではないが、それでも若い頃のもやもやは仕事の上ではつきりした形を取り、人間が一生のうちに身に付けられる知識に限度があることも解り、自分がどういふ人間であるかといふことも、既に努力したり、工夫したりすることではなくなつて、或は少くともそれでまた変化が期待出来る範囲が狭められて、兎に角、もう若いことで苦められるといふことはなくなる。人間が本当に人間らしくなるのは、それからではないだらうか。その時から、人生の長い黄昏が始り、一日の終りに来る黄昏と同様に、日が暮れるのを待ち遠しく思ふのとは反対に、辺りのものが絶えず流れ去つて行くのを止める。といふ風なことを、この頃は考へてゐる。吉田健一「鬢糸」(「わが人生処方」(中公文庫)所収)より
2017年9月12日火曜日
ひと夜さ
わたしたちは、かつて、目が覚めていたし、やがて、ふたたび、目を覚ますであろう。人生は、ひとつの長い夢に充たされたひと夜さであり、夢のなかでは、人は、とかく、うなされる。「自殺について」(ショーペンハウエル著/石井立訳/角川ソフィア文庫)より
2017年9月7日木曜日
人間の状態
ここに幾人かの人が鎖につながれているのを想像しよう。みな死刑を宣告されている。そのなかの何人かが毎日他の人たちの目の前で殺されていく。残った者は、自分たちの運命もその仲間たちと同じであることを悟り、悲しみと絶望とのうちに互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。これが人間の状態を描いた図なのである。パスカル「パンセ」(前田陽一・由木康訳/中公文庫)、第三章「賭の必要性について」、第二〇〇項
2017年8月18日金曜日
お化けと隠居
隠居して毎日なにしてるんですかと訊かれると困って、「いろいろ」と答えていた。しかしこの頃になって、荒俣宏が「大都会隠居術」(光文社)で隠居とお化け(妖怪)の類似性を指摘していたことがあれこれ腑に落ちるようになり、「妖怪のような暮らし」とか「ゲゲゲの鬼太郎の主題歌のような毎日」と答えれば正しいと思うようになった。
誰でも人間や社会に愛想がつきて、お化けか妖怪のように暮らせればいいなあ、と思うことがある。なにせ、お化けにゃ学校も試験もないし、会社も仕事もないし、死なないし病気にもならない。朝は寝床でぐうぐうぐう、昼はのんびりお散歩だ。その究極の贅沢を「老い」という手段で実現するのが隠居である。
とは言え、私も夜は墓場で運動会をしているわけではない。
誰でも人間や社会に愛想がつきて、お化けか妖怪のように暮らせればいいなあ、と思うことがある。なにせ、お化けにゃ学校も試験もないし、会社も仕事もないし、死なないし病気にもならない。朝は寝床でぐうぐうぐう、昼はのんびりお散歩だ。その究極の贅沢を「老い」という手段で実現するのが隠居である。
とは言え、私も夜は墓場で運動会をしているわけではない。
2017年8月5日土曜日
絶望
最近、キルケゴールがすごく大事なんじゃないかな、と思うのだが、読んでみると難解過ぎてほとんど良く分からなくて、これは「キリスト者」でないとどうにもならないのかも知れない、とも思うものの、やはり大事なんだろうと思う。
ああ、しかし、いつか砂時計が、時間性(このよ)の砂時計がめぐり終わるときがきたら、俗世の喧騒が沈黙し、休む間もない、無益なせわしなさが終わりを告げるときがきたら、きみの周囲にあるすべてのものが永遠のうちにあるかのように静まりかえるときがきたら — そのときには、きみが男であったか女であったか、金持ちであったか貧乏であったか、他人の従属者であったか独立人であったか、幸福であったか不幸であったか、また、きみが王位にあって王冠の光輝を帯びていたか、それとも、人目につかぬ賤しい身分としてその日その日の労苦と暑さとを忍んでいたか、きみの名がこの世のつづくかぎり人の記憶に残るものか、事実またこの世のつづいたかぎり記憶に残ってきたか、それともきみは名前もなく、無名人として、数知れぬ大衆にまじっていっしょに駆けずりまわっていたか、またきみを取り巻く栄光はあらゆる人間的な描写を凌駕していたか、それともこの上なく苛酷で不名誉きわまる判決がきみにくだされたか、このようなことにかかわりなく、永遠はきみに向かって、そしてこれらの幾百万、幾千万の人間のひとりひとりに向かって、ただ一つ、次のように尋ねるのだ、きみは絶望して生きてきたかどうか、きみはきみが絶望していたことを知らなかったような絶望の仕方をしていたのか、それとも、きみはこの病を、責めさいなむ秘密として、あたかも罪深い愛の果実をきみの胸のなかに隠すように、きみの心の奥底に隠し持っていたような絶望の仕方をしていたのか、それともまた、きみは、他の人々の恐怖でありながら、実は絶望のうちに荒れ狂っていたというような絶望の仕方をしていたのか、と。「死にいたる病」(S.キルケゴール著/桝田啓三郎訳/ちくま学芸文庫)より
2017年7月19日水曜日
要点
「ほかに何か話したいことがありますか」「ブルー・ハンマー」(R.マクドナルド著/高橋豊訳/ハヤカワ・ミステリ文庫) より
「要点はそれだけです」
「ああ、よかった」と、彼はいった。「わたしは七十五歳で、いま二百十四点目の絵を描いているところなんでしてね。もしわたしが他人の問題に気をとられるのを防止しなければ、わたしはその絵を完成させることができないかもしれない。ですから、これで電話を切ることにしますよ。ミスター — ま、あんたの名前なんかどうでもいいや」
2017年7月18日火曜日
悲劇
「エレナ、人生は、あらゆる悲劇の母……いやむしろ、悲劇のマトリョーシカだよ。大きな人形を開けると、小さな悲劇が入っていて、その中にももっと小さな悲劇が……。究極的には、それが人生をおかしく見せるんだ」「[時間SF傑作選] ここがウィネトカなら、きみはジュディ」(大森望編/ハヤカワ文庫)所収、「彼らの生涯の最愛の時」(I.ワトソン&R.クアリア著/大森望訳)より
「人生は美しい悲劇にもなりうるわ」
ジョナサンはうなずいた。「正しく解釈すればね」
2017年6月6日火曜日
自由な死について
多くのものはあまりに遅く死ぬ。ある者たちはあまりに早く死ぬ。「死ぬべき時に死ね」、という教えはまだ耳慣れまい。F.W.ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」(佐々木中訳/河出文庫)より
死ぬべき時に死ね。ツァラトゥストラはそう教える。
むろん、生きるべき時に生きなかった者が、どうして死ぬべき時に死ねよう。そのような者は生まれて来なければよかった。— わたしは余計な者たちにそう説く。
2017年6月4日日曜日
Going Gently Down
By the time you get sixty (I think) the brain is a place of incredible resonances. It's packed full of life, histories, processes, patterns, half-glimpsed analogies between a myriad levels -- a Ballard crystal world place. One reason old people reply slowly is because every word and cue wakes a thousand reference.from "Going gently down, or, in every young person there is an old person screeming to get out" by James Tiptree Jr.
What if you could free that, open it? Let go of ego and status, let everything go and smell the wind, feel with your dimming senses for what's out there, growing. Let your resonances merge and play and come back changed ... telling you new things. Maybe you could find a way to grow, to change once more inside ... even if the outside of you is saying, "What, what?" and your teeth smell.
But to do it you have to get ready, years ahead. Get ready to let go and migrate in and up into your strongest keep, your last window out. Pack for your magic terminal trip, pack your brain, ready it. Fear no truth. Load up like a river steamboat for the big last race when you go downriver burning it all up, not caring, throwing in the furniture, the cabin, the decks right down to the water line, caring only for that fire carrying you where you've never been before.
Maybe ... somehow ... one could.
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