百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2019年3月11日月曜日

高橋先生のこと

先日の三月三日、高橋陽一郎先生がお亡くなりになった。

私が大学四年生の頃、就職をする気もなかったのだが、大学院に行ってどうなるものでもないし、どうしたものかなあ、と思いつつ、先生から「来年どうするの」と訊かれ、「進学しようかなあと……」と口を濁すと、「うん、むいてるかもね」とおっしゃっていただいたのが、先生から本格的にご指導いただく日々の始まりだった。

先輩方からは怖い先生だと聞いていて、実際、怖い先生だったのだが、私が進学したころからは柔らかくなったとのことである。事実、私が厳しく叱責されたのは、以前に「池田先生のこと」に書いた一回だけだった。とは言え、一週間に一回の修士ゼミ、博士ゼミは毎回とても恐しかった。

ゼミでは論文を読んだ話をするか、自分の研究の話をするかだが、後者はもちろん、前者ですら進展がないことがある。学生が皆そうだとなると、どうやって今週のゼミを穏やかにやり過すかという作戦を練る(大体が「継投策」だ)。そして、おそるおそる 4 階の院生室から先生の研究室に降りて行き、びくびくしながらノックをして、今日のゼミをお願いします、と言うわけだ。そして大抵、穏やかには済まされないのだった。

学生の頃の私はあまり意識していなかったが、先生は変わったタイプの数学者だったようだ。一言で言えば、あまり論文を書かない。先生が書いた一番良い論文は学生時代に書いた論文だという悪口も聞いたことがある。しかし、確率論やエルゴード理論や力学系の広い分野で一目も二目も置かれていた。その理由は、表面的には、「(仕事はしないが)頭が良い、キレる」ことと「面白いホラを吹く」ことだったように思う。

数学者の「頭の良さ」には色々あるが、私が感じた先生の鋭さは、問題を初等的な線形代数や微積分のパズルに落とし込む鮮やかな手並みだった。先生は抽象論より、具体的な小さな問題を好んだ。素朴なモデルで本質は言い尽せると思っていて、大きな抽象論は信用していなかった。それだから、と言うべきか、理論構築は苦手だった。そんなスタイルが若い頃に留学していたソ連(ロシア)の数学と関係があるのかどうか、私にはわからない。しかし、独特の深い数学観を持っていた。

「面白いホラを吹く」は数学者独特の言い回しで、(正しいかどうか怪しいが)興味深い方向性を示したり、問題の本質を見抜いたりする、という意味合いである。先生はその意味で、研究を刺激する大きな影響力があったと思う。が、仕事をしない。理論を作るタイプでもない。おそらく、論文のインパクトファクタだけで能力が測られるような当世では、ほとんどいなくなった、ひょっとしたら絶滅した類の数学者かもしれない。

私は先生の某共著論文を読むことから研究の真似事を始めたのだが、後年、先生はその論文について、「自分がもし確率論の研究者だと思われているなら、それは W 先生とあの共著論文を書いたからだ」と私にこぼされた。その論文がご自慢だったのだろう。しかし、その珍しく謙虚な表現に、やはり先生ご自身、生産的でもなければ、理論も作らないことに複雑な思いを持っているのかもしれない、と感じたことであった。しかし、私は先生のようなタイプの数学者が好きだったし、今も好きだ。

晩年の先生は、私が学生だった頃、つまり教養学部基礎科学科第一の頃を、一番楽しかった良い時代として思い返されていたようだ。最も多くの学生に囲まれ、毎週のゼミでわいわいやっていた頃だからだろう。今、私はそのことを一番に嬉しく思う。