百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2018年10月4日木曜日

あからさまな情熱

われわれが認識できるのは他人の情熱だけで、われわれ自身の情熱については他人から教わって知りうるにすぎない。情熱がわれわれに作用をおよぼすのは想像力を介した二次的作用で、想像力が、最初の動機の代わりにはるかに慎ましい媒介動機をつくりだすのである。けっしてルグランダンのスノビスムが、頻繁にどこかの公爵夫人に会いに行くよう勧めたわけではない。スノビスムのせいで、ルグランダンの想像力が、その公爵夫人はあらゆる魅力を備えていると想いこんだまでの話である。ルグランダンとしては、公爵夫人と近づきになるのは、下劣なスノッブどもにはわからない才気と美徳の魅力に惹かれたからだと考えたにすぎない。ルグランダンもスノッブの一員だとわかっていたのは、他人だけである。というのも他人は、彼の想像力が果たしている媒介作用が理解できないおかげで、ルグランダンの社交活動とその第一要因を並列して見るからである。
 『失われた時を求めて 1』(プルースト/吉川一義訳/岩波文庫)より。(第一篇「スワン家のほうへ I」、第一部「コンブレー」、二)