百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2018年12月13日木曜日

「十二月大歌舞伎」玉三郎の「阿古屋」他


いただきものの賀茂鶴と杯を持参し、「今半」のすき焼き重ね弁当を買って、歌舞伎座へ。今月の夜の部は、「壇浦兜軍記(阿古屋)」で阿古屋を玉三郎がつとめるAプロと、梅枝と児太郎がダブルキャストでつとめるBプロに分かれていて、悩ましい。玉三郎の阿古屋は今観ておかねばではあるし、私は児太郎も梅枝も好きな女形なのでそれぞれの初挑戦も観たい。しかし年末で時間にも懐にも制限がある中、日程の許す範囲で一番良い席が取れる日で選んだところが、今日のAプロ。

「壇浦兜軍記」は阿古屋に玉三郎、重忠に彦三郎など。重忠が阿古屋に拷問の代わりに琴、三味線、胡弓を弾かせて心中を見抜こうとする「琴責め」の段。そもそも不自然な設定なのはさておき、役者が三つの楽器を実際に弾く必要はさらさらなく、芝居なのだから弾くふりでよいはずだ。そこを本当に弾いてしまうのが歌舞伎の趣向で、演じる方は大変だが、観る方は面白い。玉三郎の阿古屋はさすが。綺麗なのは勿論だが、歌いながら、地方とあわせながら演奏していても、役者としてがんばってますよ、すごいことやってますよ、と感じさせない。教養豊かで健気で儚げな阿古屋の姿が自然に見えてくるところが素晴しい。ところで、玉三郎は特に胡弓がうまい気がする。

「あんまと泥棒」は泥棒の権太郎に松緑、あんまの秀の市に中車。ラジオドラマの脚本を歌舞伎化したものらしい。落語ならまだしも歌舞伎にする意味があったのかどうか。でも、観る方も気が張る「阿古屋」のあとがこういう気楽な演目なのは、良い塩梅。

Aプロの最後は梅枝と児太郎で「二人藤娘」。この二人の阿古屋は観られなかったが、踊りで共演を堪能。

私はのんびりした昼の部の雰囲気が好きなので、再度、昼の部の歌舞伎座を訪れて芝居納めにしよう、という気持ちと、今日の舞台が良かったからこれで気分良く締めておく、という気持ちの間で揺れ動いている。