単なる遊びや暇つぶしで、女神ムーサイを用いるなど、女神の品位を落とすことだと、わたしにいう人がいるけれど、そのような人間は、わたしとはちがって、快楽、遊戯、暇つぶしが、どれほど価値があるかわかっていないのだ。というか、わたしなど、それ以外の目的こそ笑止千万と、今にも口から出かかっている。わたしは、その日その日を生きているのであり、こう申してはなんだけれど、もっぱら自分のために生きている。わが計画は、そこが終着点なのである。若い頃のわたしは、自分を誇示するために勉強したが、その後は、少しばかり自分を賢くするために勉強した。そしていまは、楽しみのために学んでいるのであって、けっしてなにかを得ようとするためではない。わたしの欲求を満たすためだけではなしに、そこから何歩か進んで、それで壁面を飾り立てようというもくろみから、このような種類の家具[書物のこと]に対して、なんと空しくて、金のかかる思いを抱いてしまったことか。でも、このような気持ちは、ずいぶん前に捨ててしまった。モンテーニュ「エセー」第 3 巻、第 3 章、「三つの交際について」より(「エセー 6」(宮下志郎訳/白水社)に所収)
百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より