百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに精進したり、独りでチェスの勝負を楽しんだりする。その気になったら自殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである。
「疲れた男のユートピア」(J.L.ボルヘス著/鼓直訳)より

2019年1月17日木曜日

初芝居「壽 初春大歌舞伎」

さて、今月も冥土の土産と言い聞かせて、歌舞伎座へ贅沢に行く。しかし、せめてもの節約心、自分でサンドウィッチを作り、余った食パンを焼いて小さく切り、冷蔵庫で腐りかけていた、いや、熟成していたチーズと一緒に詰めて、ワインも水筒で持参。

「舌出三番叟」は芝翫と魁春。踊りはよくわからない私だが、おめでたい感じが良かったし、息もよくあっていたのでは。

「吉例寿曽我」は曽我箱王に芝翫、一万に七之助、舞鶴に児太郎。単に私が児太郎贔屓だからかもしれないが、舞鶴の女暫が良し。そして梛の葉に福助登場。歩きはしなかったが、動きも台詞もしっかりしていた。初春には曽我ものがお約束だし、これまたおめでたい。

「廓文章」の吉田屋は伊左衛門に幸四郎、夕霧に七之助。この二人は若くて綺麗なのが何と言っても良いところだが、伊左衛門の「あほぼん」ぶりがややわざとらしく、演じてますよという感じ。そもそも「あほぼん」は関西人にしか本当の味が出せないというのが私の持論なので、厳しく見過ぎかもしれない。

「一條大蔵譚」は一條大蔵長成に白鸚、常盤御前に魁春、鬼次郎に梅玉、お京に雀右衛門など。大蔵卿が平家全盛の世に「アホ」のふりをしている話。作り阿呆が人を馬鹿にしているように見えてはいけないわけで、作り阿呆にせよ、あほぼんにせよ、アホの真髄はやはり上方でないと……と思ってしまうのは私の偏見だろうか。

全体に初芝居に相応しいおめでたい舞台で良かった。今年の運が開けそう……かも。